後蜀はなぜ孟昶の統治後期に北宋によってあっという間に滅ぼされたのか?

後蜀はなぜ孟昶の統治後期に北宋によってあっという間に滅ぼされたのか?

五代十国時代、四川盆地を本拠地にしていた後蜀(934~965年)は、しばらくの間、安定した国でしたが、最後の皇帝・孟昶が長く治めるうちにどんどん弱くなり、北宋の軍が攻めてきたときには、たった66日間で国がなくなってしまいました。

1. 孟昶の統治:最初はよかったけど、あとでダメになった

孟昶は16歳で帝位につき、はじめのうちはとてもしっかりした君主でした。

  • 役人のやり方を変えた: 権力を持ちすぎていた家臣をやめさせ、自分ですべてのことを決めました。
  • 国を豊かにした: 税金を少なくして農業を助けたおかげで、「天府之国」と呼ばれるほど暮らしやすくなりました。
  • 文化を大切にした: 自分も文芸が好きで、中国で初めて「春聯(しゅんれん=春節の対句)」を宮中に飾ったといわれています。

でも、長いあいだ国を治めているうちに、だんだん楽なほうに流されていきました

  • ぜいたくな暮らしをした: 宮中では豪華な宴会がよく開かれ、特に気に入っていた花蕊夫人(かじゅふじん) を喜ばせるために、成都の街中に芙蓉(ふよう)の木をたくさん植えさせ、「蓉城(ようじょう)」という名前がつきました。
  • 政治をほったらかしにした: 国のことをあまり気にかけなくなり、実際の仕事を王昭遠(おうしょうえん)李昊(りこう) といった能力のない側近に全部任せてしまいました。彼らはただご機嫌をとることしか考えず、政治はうまく回らなくなりました。

2. 軍が弱くなった:「守りやすい場所」でも簡単に負けた

四川盆地は「蜀道は難し、青天に登るよりもなお難し」と言われる、自然に守られた場所でした。しかし、後蜀の軍隊はその間にすっかり弱まっていました。

  • 将軍が役に立たなかった: 総大将になった王昭遠は、兵法の本を読んだだけの机上の空論家で、「今こそ自分の名を上げるチャンスだ!」と張り切っていましたが、本当の戦いになるとまったく力がありませんでした。
  • 兵士たちのやる気がなくなった: 長い平和と君主の怠けぐせのせいで、かつて強いとされた14万の蜀軍の士気はとても低く、宋軍が来るとほとんど戦わず逃げてしまいました。

3. 北宋はしっかり準備して攻めてきた

一方、宋の太祖・趙匡胤(ちょうきんえん)は、後蜀を攻めるためにとてもていねいに計画を立てていました。

  • ほかの国とつながれないようにした: まず、荊湖(けいこ)地方を自分のものにして、後蜀が南唐など他の国と手を組めないようにしました。
  • 情報を集めた: スパイを送り込んで、蜀の地形や軍の様子を詳しく調べました。
  • 物資の運び方を整えた: 山が多い地域での戦いを考えて、軽くて使いやすい車を作り、西南面転運使という役職を置いて、食料や武器をちゃんと届けるしくみを整えました。
  • 二つの方向から同時に攻めた: 乾徳2年(964年)、王全斌(おうぜんひん)劉光義(りゅうこうぎ) の二人の将軍をリーダーにして、北(陝西方面)と東(湖北方面)の両方から一気に攻めました。

4. すぐに負けてしまい、国が終わった

後蜀の抵抗はほとんど意味がありませんでした。

  1. 王昭遠が大敗した: 北から来た宋軍と戦った王昭遠は、何度も負けて、最後にはつかまりました。
  2. 東の軍も負けた: 東のほうの蜀軍も宋軍の勢いに耐えられず、すぐ壊れてしまいました。
  3. 成都があきらめた: 宋軍が成都のすぐそばまで来ると、孟昶はもう戦わないことに決めて、乾徳3年(965年)正月に降参しました。

北宋軍が成都に着くまで、たった66日しかかかりませんでした。天然の守りやすさと14万の兵士がいたのに、これほど早く滅ぶとは、誰も予想していませんでした。

結論

後蜀が滅んだのは、外からの強い軍隊が来たからではなく、中でずっと弱っていたのが一番の原因です。孟昶の政治への無関心とぜいたく、それに続く人材不足と軍備のゆるみが、趙匡胤という優れた指導者の前に立ちはだかる最後の壁を簡単に壊してしまったのです。