
五代十国という戦乱が続いた時代に、孟知祥(もう ちしょう/Meng Zhixiang)はもともと後唐で力をもつ武将でしたが、やがて自分の国「後蜀」をつくって初代の皇帝になりました。
1. 後唐での孟知祥の出世
孟知祥(874年-934年)は今の河北省邢台市にあたる邢州龍岡の生まれで、若いころから晋王・李克用(り こくよう/Li Keyong)にその能力を認められました。さらに李家の親戚になったおかげで、早くから高い地位につくことができました。李克用の養子である李存勖(り そんしゅく/Li Cunxu)が後唐を建国したとき、孟知祥は中門使や北京留守(太原の責任者)といった重要な役目を任され、後唐の中心で信頼される人物になっていきました。
2. 西川節度使として成都へ赴く
同光3年(925年)に後唐が前蜀を倒すと、戦後の統治を任せるために孟知祥を西川節度使として成都に送りました。当初は後唐に忠実でしたが、蜀の豊かな土地と自然に守られた地形を見て、自分だけでこの地を治めることを考え始めました。
3. 後唐から離れ、東川も手中に収める
明宗(李嗣源/り しげん)の時代になると中原は内乱が多くなり、とても不安定な状態になりました。孟知祥はこのチャンスを見逃さず、後唐からの命令を無視し始めました。長興元年(930年)には正式に反乱を起こして剣州(今の四川省剣閣県)を拠点に後唐軍と戦いました。
そして長興4年(933年)には隣の東川節度使・董璋(とう しょう)を破り、東西両川すべてを自分の支配下に入れました。これによって蜀全体を掌握した孟知祥に対し、後唐は形だけのあいさつとして「蜀王」という位を与えましたが、実際にはすでに後唐とは別々の国として動いていました。
4. 後蜀を建ててすぐに亡くなる
応順元年(934年)の正月、孟知祥は成都で皇帝の位につき、「大蜀」(後に後蜀と呼ばれる)という国を正式にスタートさせ、年号も「明徳」としました。しかし即位してわずか7か月後の同年9月に病気で亡くなり、61歳で生涯を終えました。死後、廟号は高祖、諡号は「文武聖徳英烈明孝皇帝」とされました。
5. 彼の行動が残した影響
孟知祥は時代の流れをうまくつかって短い期間で自分の国をつくりあげました。彼のおかげで蜀の地は安定し、息子の孟昶(もう ちょう)の時代には文化や経済が大きく発展することになります。中国で最も古いとされる春聯(しゅんれん/春の対句)も、この後蜀の時代に生まれたと考えられています。








