
五代十国という世の中がとても乱れていた時代に、孟知祥(もう ちしょう)は西川節度使として四川盆地の西側を治めていました。後に後蜀という国を始める彼が、そのもとになる「両川」(西川と東川)を一つにするうえでいちばん大事な出来事になったのは、932年に起きた漢州での戦いです。
仲間から敵へ:董璋との関係がこじれたわけ
最初のうちは、孟知祥と東川を治めていた董璋(とう しょう)は、同じ相手である後唐の朝廷に対抗するために力を合わせていました。しかし、その後状況が変わります。後唐の皇帝・明宗が有力な家臣の安重誨を殺したあと、孟知祥の家族には褒美が与えられました。それに対して董璋の家族は処分されてしまいました。この不公平な扱いによって、董璋は孟知祥を疑うようになります。
特に931年から翌年にかけて、「孟知祥は朝廷と内通しているのではないか」と思った董璋は、ついに西川を攻めることを決めてしまいます。
決め手となった漢州での激しい戦い(932年4月~5月)
董璋が先に手を打つ
- 932年4月28日に、董璋は自分の本拠地である梓州(今の四川省三台県)から大勢の兵を連れて西川に入り込みます。
- 5月1日には白楊林鎮を破って西川の将軍・武弘礼を捕らえ、すぐに漢州(今の広漢市)を自分のものにします。
孟知祥が逆襲する
- 孟知祥は自分で援軍を率いて前線に向かい、
- 5月3日に鶏蹤橋(けいそうきょう)の近くで激しい戦闘が起こります。最初は押され気味でしたが、董璋の軍が補給に困っていて孤立していることに気づき、一気に反撃を始めます。そのとき、東川軍の将・王暉(おう き)が突然裏切って孟知祥の味方についたため、戦況は大きく変わります。
董璋の終わりと東川の崩れ
- 董璋はわずか数人の兵と一緒に逃げますが、
- 5月4日に梓州に戻ったところで自分の部下に殺されてしまい、東川の軍は戦う力を完全に失います。
統一後の新しい動き
- 孟知祥はすぐに東川全体を自分の支配下に入れ、「剣南両川節度使」として実質的に独立した政権を築きます。
- 933年には後唐の朝廷から正式に「蜀王」として認められ、
- 934年1月には成都で即位して、国号を後蜀とし、新しい国をスタートさせます(廟号:高祖)。






