五代十国の混乱を終わらせたのは誰ですか?

五代十国の混乱を終わらせたのは誰ですか?

五代十国(907年~979年)は、唐が滅んでから中国がまたバラバラになったとても乱れた時代で、わずか53年という短い間に中原では5つの政権が次々と入れ替わり、南や山西のあたりには10くらいの小さな国が同時に存在していました。当時は「天子は生まれつき決まっているわけではなく、兵が強く馬が速い人がなる」と言われるほど、力がある者が勝つ世界でしたが、そんな混沌にピリオドを打ったのが、北宋を築いた初代皇帝・宋太祖の趙匡胤(そう きょういん)です。

軍人から皇帝になった男・趙匡胤

趙匡胤(927年-976年)はもともと後周で働く武将で、特に皇帝・周世宗柴栄(さい えい)のもとで何度も戦って功績を上げ、禁軍のトップである「殿前都点検」まで上り詰めました。しかし柴栄が急に亡くなり子どもが皇帝になると政治が不安定になり、960年に北からの攻撃に対応して出陣した趙匡胤は、陳橋の駅(ちんきょうのえき)で部下たちに黄袍を着せられて皇帝にさせられることになります(この出来事は陳橋兵変と呼ばれます)。こうして後周は血を流すことなく終わり、新しい国・北宋が誕生しました

「まず南から、あとで北へ」——頭を使った統一のやり方

趙匡胤はただ戦うのがうまいだけでなく、できるだけ争わずに広い地域を一つにする知恵を持っていました。彼はまず弱くてまとまりのない南の国々を順番に攻め、その後で強い北の北漢や契丹(遼)に向かうという「先南後北、先易後難」という方針を立てました。また、負けた相手、たとえば南唐の李煜や後蜀の孟昶といった君主たちを丁寧に扱って敵を増やさないようにし、さらに「杯酒釈兵権」という方法で仲間の武将たちから兵を任せる権利を静かに取り戻して、中央がしっかり国を治める仕組みを作りました。その結果、在位16年のうちに荊南、湖南、後蜀、南漢、南唐といった主要な国々を次々と自分の支配下に入れることができました。

最後の国を倒して完全な統一へ

趙匡胤は976年に突然亡くなりましたが、弟の趙光義(宋太宗)が跡を継いで兄の考えを引き続き進め、979年に最後まで残っていた北漢を滅ぼしました。これでようやく五代十国というバラバラだった時代は完全に終わり、北宋は中原と南のほとんどを治める大きな国となりました。

なぜ趙匡胤は「乱れの終わりをもたらした人」と言われるのか

彼は20年もかからずに広い地域をまとめあげただけでなく、武将が暴れないようにして文官を中心とした政治を進めたことで、長く安定した国づくりの土台を作りました。このような理由から、日本や欧米の歴史研究でも『五代十国:乱世のむこうの「治」』(山根直生編)などに代表されるように、今でも高く評価されています。