後唐の開国皇帝は誰ですか?

後唐の開国皇帝は誰ですか?

後唐を始めたのは李存勗(り そんきょ/り そんく)という人です。彼は「荘宗(そうそう)」という名前で廟号に登録されており、子どものころの呼び名は「亜子(あし)」でした。沙陀族(しゃだぞく)という民族の出身で、五代十国時代に活躍した有名な武将です。

後唐ってどんな国?―五代十国の混乱した時代につくられた政権

後唐(こうとう)は、中国の五代十国時代(907年~979年)に現れた「五代」と呼ばれる五つの国の中の一つです。
都は洛陽(らくよう/今の河南省洛陽市)に置かれ、923年に建国されてから937年に滅びました。

この国は、それより前の「後梁(こうりょう)」という国を倒してつくられました。その創業者こそが李存勗です。

李存勗の生まれた家と若いうちからの活躍

李存勗は885年12月2日(唐の光啓元年)、晋陽(しんよう/今の山西省太原市)で生まれました。父は唐の終わりごろに力を持っていた軍閥のリーダー・李克用(り こくよう)で、「晋王(しんおう)」と呼ばれていました。彼の民族は突厥系の遊牧民である沙陀族です。

小さいころから馬に乗ることや弓を使うのがとても上手で、「他の人よりずっと勇敢だった」と記録されています。11歳のときにはすでに父と一緒に反乱軍をやっつける戦いに参加しており、当時の唐の昭宗皇帝からもほめられました。

「三矢の遺訓」を実現して後梁を倒し、後唐を築く

李克用は亡くなる直前、息子の李存勗に三本の矢を渡しながら、「この三人の敵を必ず倒せ」と言い残しました。その三人とは、後梁を建てた朱温(しゅおん)、北の勢力を持つ劉仁恭(りゅう じんこう)、そして契丹(きったん)の指導者・耶律阿保機(やりつ あぼき)でした。

李存勗はこの「三矢の遺訓」を心に刻み、908年からおよそ15年かけて、一人ずつ敵を倒していきました。そして923年、ついに後梁を滅ぼして洛陽で皇帝となり、後唐という新しい国を始めました。

戦いは得意だったが政治は苦手で、結果的に国を失う

李存勗は「馬の上で天下を取った」と言われるほど戦場では強い将軍でしたが、皇帝になってからの政治のやり方はうまくいきませんでした。

具体的には、役者や芸人のような人たちを高い地位につけて国を動かそうとしたり、皇后の劉氏(りゅうし)が私腹を肥やして民衆に重い税をかけたりしました。また、自分自身も音楽や芝居ばかり楽しんで、国のことをあまり気にかけませんでした。

そのため、即位してからわずか3年後の926年、兵士たちが起こした反乱(興教門の変)で殺され、41歳という若さで命を終えました。

最後に

後唐を築いた李存勗は、戦いでは非常に優れていましたが、政治の失敗によって短い人生で終わってしまった悲劇的な皇帝です。彼の話は『新五代史』の「伶官伝序」の中で「苦労して国を興し、のんびりして自分を滅ぼす」とまとめられており、後の人に大切な教訓を伝え続けています。