
中国の南西にある成都は、長い歴史の中で何度も新しい国や政権の中心になってきました。それは「成都平原」でたくさん食べ物が作れること、「蜀道」と呼ばれる山に囲まれた入りにくい地形であること、そして海から遠くて外からの攻撃を受けにくい内陸にあること、この三つのおかげです。
歴史の中の成都:九回も新しい国の首都になった街
成都は今でも大きな都市ですが、2300年以上前からずっと同じ名前で、ほぼ同じ場所にあります。これまでに成都を首都にした主な独立した国や政権は次のとおりです。
- 古蜀王国(紀元前5世紀ごろ~紀元前316年)
- 成家(公孫述、西暦25年~36年)
- 蜀漢(劉備、221年~263年)
- 成漢(李雄、304年~347年)
- 譙蜀(譙縦、405年~413年)
- 前蜀(王建、907年~925年)
- 後蜀(孟知祥、934年~979年)
- 李蜀(李順、994年、数か月だけ続いた)
- 大西政権(張献忠、1644年~1647年)
中国がバラバラになるたびに、成都はいつも新しい力の中心地になってきました。
理由①:成都平原 — 「天がくれた豊かな土地」と言われた農業地帯
肥えた土としっかりした水の管理
成都は「四川盆地」の西側にある「成都平原」の真ん中にあります。この平野は岷江や沱江といった川が運んできた土でできていて、広さはおよそ18,810平方キロメートルもあります。
- 土の性質: ミネラルがたっぷり入った紫っぽい色の土(紫土)で、植物がよく育ちます。
- 天気: 年間の平均気温は16~18℃で、雨は900~1300ミリ降り、霜が降らない日が年に280日以上あります。
- 水路の仕組み: 紀元前256年にできた「都江堰」という水利システムのおかげで、干ばつや洪水の心配が少なくなりました。この仕組みは2000年以上も使い続けられています。
こうした条件があるため、成都平原は昔から「天府之国」— 天が与えてくれた豊かな国 — と呼ばれ、兵士や役人たちを長く養えるだけの食料を安定して作ることができました。
理由②:蜀道 — 「外から攻めにくく、中から守りやすい」地形
「蜀に行く道は空に登るより難しい」
唐代の詩人・李白は『蜀道難』という詩で、成都へ通じる道の険しさをうたいました。金牛道や米倉道、陰平道といった主要な道は、秦嶺や大巴山といった高い山を越えなければならず、大勢の兵を動かすのはとても大変でした。
- 北側: 剣門関のような、少ない人数でも敵を防げるような要所がいくつも連なっています。
- 東側: 長江三峡を上るのは急流が多く、船での移動も危険です。
- 南と西: 高原や山ばかりで、大きな軍隊が通るのはほぼ不可能です。
このような地形のため、外から攻めてくるにはお金も時間もたくさんかかります。一方で、中から中原(中国の中心部)に向かって攻めるのは比較的簡単でした。たとえば三国時代には、蜀漢が数万人の兵だけで、曹魏の大軍を何年も抑え続けることができました。
理由③:海から遠い内陸の奥にある安全な立地
成都は海岸からとても離れた内陸の奥深くにあります。そのため、敵が海から直接攻めてくる心配がありません。近代でも、日中戦争(抗日戦争)のときには重慶とともに「大後方」として、重要な役割を果たしました。
また、四川盆地全体がまるで自然の城のように機能していて、一度中に入れば、成都を中心に広い農地を使えるため、長期間戦い続けることが可能でした。
結論
成都が昔から新しい政権の首都に選ばれてきたのは、運がよかったわけではありません。「食べ物がたくさん取れる」「外敵が入りにくい」「内陸で安全」という三つの条件がそろっていたからこそ、乱れた時代でも自分たちの国を長く続けられたのです。





