
後蜀(こうしょ)は、中国の五代十国時代(907~979年)に四川盆地を中心に短い間だけ続いた国でした。建国してからわずか32年で北宋にのっとられましたが、その裏にはいくつかの大きな問題がありました。
1. 後蜀ってどんな国だった?基本情報
- できた年:934年(孟知祥が皇帝になった)
- 都:成都(今の四川省成都市)
- 支配していた地域:四川盆地全体と、重慶、陝西南部、甘粛東南部、湖北西部
- 王様:初代は孟知祥、二代は息子の孟昶(そう)
- 終わった年:965年(北宋に攻められて終わり)
2. 後蜀が崩れた直接の流れ
964年、宋の初代の皇帝・趙匡胤(ちょうきょういん)は北と東の二方向から大軍を送って後蜀を攻めました。後蜀側は主力を剣門関(けんもんかん)に集めて守りを固めましたが、宋の軍が素早く動いて防衛線を破ったため、たった66日で成都は開かれ、孟昶は降参しました。
3. 後蜀が滅んだ本当の理由
(1)軍が弱く、将軍も役に立たなかった
後蜀は最初のうちは安定していましたが、二代目の孟昶の時代になると軍の力がどんどん落ちていきました。特にひどかったのが将軍の王昭遠(おうしょうえん)で、彼は戦いの前に「諸葛孔明みたいに中原を治めてみせる」と言いながら、実際に戦うと三回とも負けてしまい、大事な剣門関まで敵に取られ、最後は逃げようとしてつかまって宋の捕虜になってしまいました。このように、実戦を知らない文官や能力のない武将が重要な役目を担っていたことが、大きな失敗につながりました。
(2)長く平和だったせいで守りが甘くなった
四川盆地は自然の要塞で外から攻めにくかったため、建国から30年以上も大きな戦いがなく、その結果、軍の訓練や守りの準備がおろそかになっていました。孟昶自身も、「父と自分は40年間兵士をしっかり養ってきたのに、敵が来たら矢一本も放てないとは」と嘆いており、これは平和が長すぎると、いざというときに何もできなくなることを示しています。
(3)周りの国と仲良くせず、チャンスを逃した
後蜀は近くの国とほとんど付き合わず、一人で行動していました。特に中原で次々と強くなった後漢や後周、北宋といった国に対して、同盟を結ぼうともしませんでした。また、関中(かんちゅう)地方に進出できるよい機会もあったのに、消極的だったため、地理的に有利な場所にいるにもかかわらずそのメリットを活かせませんでした。
(4)政府が腐って、人々の信頼を失った
孟昶の晩年には宮廷での贅沢がひどくなり、有名な花芯夫人(かしんふじん)をとてもかわいがって豪華な暮らしをしていました。このような政治の乱れは、一般の人や兵士の信頼を失う原因となり、宋の軍が攻めてきたとき、人々の間に「この国を守りたい」という気持ちがあまりなく、すぐに負けてしまいました。
5. まとめ
後蜀の終わりは「宋の軍が強かった」だけではありません。政治の乱れ、軍の弱まり、指導者のミス、周りの国との孤立が重なって起きた結果です。たとえ安全な場所に国があっても、長く続くためには常に改善して危機に備えることが大切です。





