
孟昶(もう・ちょう、919年–965年)は中国の五代十国時代にあった後蜀という国の第2代の皇帝で、934年から965年まで国を治めました。若いころに即位しましたが、後に自分で政治を動かすようになり、いくつかの大事な改革を行いました。
1. 権力者を除いて自分の力を強くする
孟昶が最初に皇帝になったとき、李仁罕や張業といった自分勝手な重臣たちに囲まれていましたが、すぐに彼らを処分したり役職から外したりして、自分の権力をしっかり握りました。そのおかげで後蜀の政治は落ち着きを取り戻し、皇帝を中心に国を動かす体制ができあがりました。
2. 役人の行動を見直させるために『官箴』を出す
広政4年(941年)に、孟昶は地方の役人が悪いことをしないようにと、有名な 『官箴』(かんしん)という文書を発表しました。その冒頭にはこんな16字が書かれています:
「爾俸爾禄、民膏民脂。下民易虐、上天難欺」
(お前の給料は民の血と汗だ。民はいじめやすいが、天はだませない)
この言葉はあとで北宋の宋太宗が全国の役所に貼らせ、「戒石銘」として広く知られるようになりました。これは孟昶が政治に対してどう考えていたかをよく示しています。
3. 農業を支えながら教育も広げる
孟昶は農業にも力を入れて、水路を整備したり桑の栽培を勧めたりすることで、蜀の経済を安定させました。さらに、儒教の教えを石に刻んだ 石経(せききょう)を作り、子どもたちが学べる環境を整えました。こうした取り組みのおかげで、後蜀は五代十国の国々の中でも特に文化や暮らしの面で平和で豊かな地域になりました。
4. 領土を広げて外交でもうまく立ち回る
947年に契丹が後晋を滅ぼした混乱に乗じて、孟昶は秦州・成州・階州・鳳州を自分のものにし、前蜀の時代と同じくらいの広さの国を取り戻しました。これにより後蜀は一時的に最大の領土を持ち、中原の争いから離れて自分たちだけで平穏に暮らせるようになりました。
結び
孟昶の政治は、五代十国という大変な時代に珍しく平和で豊かな暮らしを人々にもたらしました。晩年には贅沢になりすぎたものの、それ以前に行った良い政策、特に『官箴』や学問を大切にした方針は、後の中国の政治に大きな影響を与えました。今でもその功績は高く評価されています。








