孟知祥はなぜ成都で帝を称し、後蜀を建国できたのか?

孟知祥はなぜ成都で帝を称し、後蜀を建国できたのか?

孟知祥(もう ちしょう)は、中国で国が次々と変わって混乱していた五代十国の時代に、四川の地をもとに後蜀(こうしょ)という国をつくった武将です。

1. 背景:前蜀がなくなって後唐がぐちゃぐちゃになった

925年、後唐の庄宗・李存勗(り そんきゅう)が前蜀(ぜんしょ)を倒して、蜀の地(今の四川省あたり)を自分のものにしました。その後、後唐は孟知祥を西川節度副使として成都に送りました。これは、李克用(り こくよう)の親戚だったから(孟は李の姪の夫)信頼されていたためです。ところが翌年の926年、後唐の中で大きな兵の反乱がおきて庄宗が殺され、代わりに明宗・李嗣源(り しげん)が皇帝になりました。この混乱をみて、孟知祥は自分だけで動けるように動き始めました。

2. 孟知祥がうまくやったポイント

(1)軍の力で地域をしっかり押さえた

前蜀がなくなってからの蜀の地は、あちこちで反乱が起きたり治安が悪かったのですが、孟知祥は李紹琛(り しょうしん)の反乱を鎮めて、自分の軍で地域全体をしっかり守りました。

(2)暮らしやすい政治をした

前蜀の時代は税が重くて政治も悪かったので人々は苦しんでいましたが、孟知祥は余計な税をやめさせ、正直な役人を使い、困っている人を助けるといったことを進めました。そのため、社会が落ち着いて多くの人に好かれました。

(3)中原の国とはほどほどの距離を保った

後唐の明宗はしばらくして孟知祥を西川節度使にし、さらに933年には蜀王にもしました。でも孟知祥は表面上だけ従うふりをして、じつは自分だけの国をつくる準備を着々と進めていました。

3. 後蜀のはじまり:934年、成都で帝になる

934年1月、後唐が明宗の死後に次の皇帝をめぐってもめていたすきを見て、孟知祥は成都で皇帝を宣言し、「大蜀」という国を正式に建てました。年号は「明徳(めいとく)」とし、あとで歴史では後蜀と呼ばれることになります。しかし帝になってからわずか7か月で亡くなり、跡は息子の孟昶(もう ちょう)が引き継ぎました。

4. 後蜀をつくれた主なわけ

わけ 説明
地の利 四川盆地は山に囲まれていて、外から攻めにくい場所でした
政治の空白 後唐が内乱でまとまらず、中央の力が蜀まで届きませんでした
人の支持 前蜀のひどい政治から抜け出して暮らしやすくなったので、人々に信頼されました
自分の力 孟知祥には政治や軍をまとめる力があり、李克用の一族とのつながりもありました

まとめ

孟知祥が後蜀をつくったのは、ただ欲張っただけではありません。世の中の混乱、土地のよさ、人々の信頼、本人の能力がすべてそろっていたからこそできました。国は長くは続きませんでしたが、五代十国の中では比較的平和で、文化や経済でもそれなりの成果を残しています。