
五代十国(907年~960年)は、中国の歴史の中でとても混乱が多く、政権が次々と変わる激動の時代でした。この時期には、宰相にあたる役職である「同中書門下平章事」(どうちゅうしょもんかへいしょうじ)、略して「同平章事」(どうへいしょうじ)がほとんど何も決められなくなり、ただの肩書きだけのものになっていました。ここでは、そのようになってしまった理由をわかりやすくまとめます。
同平章事って何?
唐の中期ごろから、三省(中書省・門下省・尚書省)のトップ以外にも宰相としての仕事をさせるために、「同中書門下平章事」という役職が使われるようになりました。これは、「中書省と門下省の長と同じように国のかじ取りを話し合い、決める」という意味で、実際には宰相と同じように扱われていました。
五代での同平章事の状況とその変化
1. 実際の力を握っていたのは「枢密使」
五代のどの王朝でも、皇帝の近くにいて軍や人事を全部コントロールしていた「枢密使」(すうみつし)が本当の政治の中心でした。後梁や後唐、後晋といった国では、枢密院が重要な決定をすべて行っており、同平章事は名前だけの存在でしかありませんでした。
- たとえば、後唐の郭崇韜(かく すうとう)は枢密使として宰相よりも強い影響力を持っていました。
- 同平章事は政策を作ったり命令を出したりすることができず、式典など形式的な仕事だけを任されていました。
2. 地方の軍人出身の王が文官を信用しなかった
五代の王の多くは、地方で軍を率いていた節度使(せつどし)という立場から帝位につきました。彼らは自分の兵隊を頼りに権力を手に入れたため、文官である同平章事を信頼せず、むしろ自分たちの地位を脅かす存在だと考えていました。
- そのため宰相の任命は短期間で何度も変わり、安定した政治運営ができませんでした。
- 仮に任命されたとしても、実際に政治に関わることはほとんど許されませんでした。
3. 役職がただの名誉になった
功績をあげた人や有力な武将を喜ばせるために、五代の王朝は「同平章事」という名前をよくごほうびとして使っていました。こうした使い方は「使相」(しそう)と呼ばれていましたが、これは仕事のない、見かけだけの肩書きにすぎませんでした。
- 節度使が「同平章事」の名前を持つことは珍しくなく、むしろ「本当の宰相ではない」というサインにもなっていました。
北宋になってからの制度の見直し
北宋の初めのころも、「同平章事」は宰相の正式な呼び名として使われていました。しかし、宋の太祖や太宗は皇帝自身の力を強くするために、宰相の持つ権限をわざと小さくし、いくつかの機関に分けて管理させました。
- 行政(中書門下)、軍事(枢密院)、財政(三司)をそれぞれ別の組織が担当することで、同平章事の発言力はどんどん弱まりました。
- 1082年に行われた元豊の制度改革で「同平章事」は正式に廃止され、昔の三省制が復活することになりました。
無力になった主な理由
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 枢密使が実権を握った | 軍や人事を全部コントロールし、宰相の仕事を奪った |
| 武人が国を治めた | 文官より武将を大切にして、同平章事を軽く見た |
| 肩書きが中身のないものになった | 功績へのごほうびとして、実際の仕事のない称号をたくさん出した |
| 政権が長続きしなかった | 王朝がすぐ入れ替わるため、制度をしっかり使えなかった |





