
五代十国(907年~979年)は、唐が滅んでから宋が国をまとめるまでのたった72年間のバラバラな時代です。期間は短いですが、この時代は「中国の歴史でいちばんめちゃくちゃだった時期」とよく言われています。
1. 五代十国って何?基本の話
- 五代とは、中原(今の華北)で次々とできた5つの短命な国で、後梁・後唐・後晋・後漢・後周(907–960年)のことです。
- 十国は、南の地域や山西あたりにあった十以上の小さな国々で、前蜀・後蜀・南唐・呉越・閩・楚・南漢・南平・北漢などが含まれます(891–979年)。
この時代のいちばんのポイントは、中央の力がなくなって、軍人の出身の武人たちがそれぞれ自分の地域で争い合っていたことです。
2. めちゃくちゃになったきっかけ:唐の終わりごろの藩鎮制度
五代十国の混乱のもとは、唐の中期以降に広がった「藩鎮(はんしん)」という仕組みにあります。
唐の玄宗のころ、国境を守るために「節度使」という役人が置かれましたが、彼らは軍隊もお金も行政も全部自分で動かすようになり、だんだん国の中の小さな国みたいになっていきました。安史の乱(755–763年)のあと、節度使は事実上、中央の命令を聞かない独立勢力になりました。そして、その地位は親から子へと受け継がれ、自分たちの兵士を持つのが当たり前になっていきました。つまり、五代十国の混乱は、唐の制度の問題がどんどん大きくなって起きた結果だったのです。
3. 国がころころ変わる異常なスピード
53年の間に5つの国が次々とできて、14人の皇帝が交代しました。皇帝が位にいる平均の期間は約3.8年で、一番短かったのは後漢のわずか3年です。しかも、8割以上の皇帝が殺されたり自害したりして、普通ではない死に方をしています。
当時の武将たちは、「天子は兵強馬壮なる者が為すもの、寧んぞ種有らんや!」(強い軍隊を持っている人が天子になれるのであって、血筋なんて関係ない)と言っていました。これは、その時代に道徳や秩序がまったくなくなっていたことをよく表しています。
4. 武人がすべてを決め、ルールが壊れた
この時代はまさに「武人の天下」で、儒教の教えや文官が偉いという考えはまったく通用しませんでした。
文人は軽く見られ、「力=正しさ」という考えが広まりました。たとえば、後梁の朱温は自分の息子に殺され、後唐の李存勗は役者を信じすぎて兵士の反乱で命を落としました。また、後晋の石敬瑭は契丹(遼)に「燕雲十六州」という大事な土地を渡してしまい、「児皇帝(子分の皇帝)」と呼ばれて、中華世界全体の恥とされました。
5. 一般の人々が味わったつらい現実
戦争や略奪が日常茶飯事で、普通の人々はとてもひどい目にあいました。
食糧がなくなると、軍隊が人間の肉を食べるための「宰殺務(さいさつむ)」という特別な部隊まで作っていました。農村は荒れ果てて、人口は3,000万人から2,000万人以下にまで減りました。社会のルールも崩れてしまい、家族関係や結婚もとても不安定になりました。
6. ほかの時代と比べて:どうして「いちばんめちゃくちゃ」なの?
三国時代や南北朝時代など、他のバラバラな時代と比べても、五代十国の混乱は特にひどいです。
| 評価するところ | 五代十国 | 他のバラバラな時代 |
|---|---|---|
| 国が続いた長さ | 平均10年より短い | 数十年~百年くらい続く |
| 道徳やルール | ほとんどなく、暴力が正義 | 儒教や仏教などの考えがまだ残っている |
| 外国との関係 | 外敵に土地を渡して従った(燕雲十六州) | 自分たちで外交しようとする |
このように、政治も暮らしも道徳も外国との付き合いも、すべての面で秩序がなくなっていたため、「中国でいちばんぐちゃぐちゃだった時代」と言われているのです。
7. 終わりとその後の変化
960年、後周の将軍だった趙匡胤が「陳橋の変」を起こして北宋を建てました。さらに979年には、宋の二代目の皇帝・太宗が北漢を倒して、五代十国は終わりました。
宋の国はこの混乱の経験をしっかり学び、「文官を大事にして、武人を抑えよう」という方針をとりました。趙匡胤は「天下の文官が多少悪いことをしても、武将が反乱を起こすよりはましだ」と言っており、そのおかげで中国史上でも珍しいほど長い安定した時代が続きました。
まとめ:力だけが通る暗い時代
五代十国は、「強い者が勝つ」「勝てば正しい」という考えが広がった、中国の歴史で他に例のない混沌とした時代でした。でも、この苦しい経験があったからこそ、後の宋の時代に文化や経済、制度が大きく発展したとも言えます。





