
中国でいちばん世の中がぐちゃぐちゃだった五代十国時代(907年~979年)に、前蜀(ぜんしょく)という国が短い期間でしたが、しっかりとした政治と経済の発展を実現しました。この国の生みの親である王建(おう けん)は、もともと身分の低い家に生まれましたが、努力とチャンスをつかんで皇帝まで上り詰めました。
前蜀の基本情報
- できた年:907年
- 終わった年:925年
- 都:成都(今の中国・四川省成都市)
- 初代のトップ:高祖・王建(在位:907年~918年)
- 支配していた場所:四川盆地全体と、そのまわりの陝西南部、甘粛東南部、湖北西部など
前蜀は「十国」の一つで、五代十国のはじめのころには、もっともまとまりがあって平和な国でした。
王建の若いころと軍人としての出発
王建(847年~918年)は河南省舞陽県で生まれ、若いころは「賊王八(ぞく おうはち)」というあだ名で知られていて、牛をこっそり売ったり塩を密売したりするような生活をしていました。しかし唐の終わりごろ、忠武軍(ちゅうぶぐん)に入隊して軍人としての人生をスタートさせました。
黄巣の乱(875年~884年)のとき、唐の僖宗(きそう)を守ったことで評価され、神策軍(しんさくぐん)の将軍まで昇進しました。でも朝廷の中でのいざこざのせいで地方へ飛ばされ、利州(今の四川省広元市)の役人になりました。
西川を手に入れて独立への準備を進める
888年、王建は成都をねらって西川節度使の陳敬瑄(ちん けいせん)と戦い始め、3年間の激しい争いの末に西川を自分のものにして、自分自身が西川のトップになりました。
その後、東川節度使の顧彦暉(こ げんき)、黔南節度使の王建肇(おう けんそう)、武定節度使の拓跋思敬(たくばつ しきょう)といった相手を次々に倒して、四川盆地とその周辺地域すべてを自分の支配下に入れました。そして903年には唐から「蜀王(しょくおう)」という肩書きをもらい、事実上、独立した国をつくりました。
唐がなくなって前蜀が正式に誕生(907年)
907年、朱温(しゅ おん)が唐朝を終わらせて後梁(こうりょう)を建てると、王建はそれを認めず、「大蜀(だいしょく)」を名乗って皇帝になりました。これが前蜀のはじまりです。
王建は後梁に対抗するために、自分が唐の正統な後継者だと主張し、制度や文化の面でも唐のやり方を大切に引き継ぎました。
国の中をよくするための政策と暮らしの回復
王建が治めていた時代、前蜀はとても早く発展しました。それは次のような取り組みがあったからです:農業では水路を直したり新しい田畑を開いたりして農民を助け、商業では交易の道を安全にして市場を整え、韋荘(い そう)という詩人や杜光庭(と こうてい)という道士といった知識人を大事に使って文化を盛んにし、さらに税金を軽くして戦いで疲れ切った人々を休ませる「与民休息(よみんきゅうそく)」という考え方を大切にしました。
そのおかげで、蜀の地は「天府之国(てんぷのくに)」と呼ばれるほど豊かになり、五代十国のはじめに経済や文化の中心地の一つとなりました。
前蜀が滅びたわけとその後の影響
王建が亡くなったあと(918年)、跡を継いだ息子の王衍(おう えん)はぜいたく好きでわがままな性格で、政治はすぐに悪くなり国も弱くなりました。そのため925年には後唐(ごとう)に攻め込まれ、わずか18年で前蜀は滅ぼされました。
しかし王建が築いた安定した国づくりは、後の後蜀(ごしょく)や宋の時代の四川地方の発展につながる土台となりました。
まとめ
前蜀が強くなれたのは、ただ戦って土地を広げたからではありません。仲間をうまくつくり、国の中をしっかり治め、文化も大切にする——こうしたバランスの取れたやり方が成功のカギでした。








