
唐玄宗の時代に、誰も知らないような地方の役人が急に朝廷のトップまで上り詰めた人がいます。その人は楊国忠(よう こくちゅう)で、皇帝にとても気に入られていた楊貴妃という従妹(いとこ)がいたおかげで、これほど早く出世できました。
育ったところと若いころの暮らし
楊国忠(本名:楊釗〈よう ちょう〉)は、今の山西省永済市あたりにある蒲州永楽で生まれました。若いころは遊んでばかりで、酒を飲んだり賭け事にふけったりしていたため、親せきからも嫌われていました。30歳くらいのときに四川へ行って屯田兵として軍に入り、その後、新都県尉という小さな役職に就きましたが、任期が終わるとまた貧しい暮らしに戻ってしまい、地元の有力者である鮮于仲通(せんう ちゅうつう)の助けを借りて暮らしていました。
楊貴妃が宮中に加わって状況が一変(745年)
天宝4年(754年)になると、人生が大きく変わります。従妹の楊玉環(よう ぎょくかん)が唐玄宗のお気に入りになり、「楊貴妃」として正式に后妃の地位を得たのです。これをきっかけに、楊家のみんなが急に目立つようになり、力をつけていきました。
楊釗はこのチャンスを見逃さず、剣南節度使の章仇兼琼(しょうきゅう けんけい)に勧められて長安に向かい、蜀の特産品を持って楊貴妃の姉妹たち(韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人)に贈り物を渡し、彼女たちを通じて皇帝に自分の存在を知らせようと計画しました。
宮廷でのものすごいスピードの昇進
楊貴妃の後ろ盾があったおかげで、楊釗はすぐに右金吾衛兵曹参軍という役職に任命され、その後も監察御史や度支員外郎など、お金や取り締まりに関係する重要な仕事を次々と任されるようになり、「楊国忠」と名前を変えたことで皇帝からの信頼もさらに強まりました。
特に李林甫(り りんふ)という宰相が752年に亡くなったあと、楊国忠は実質的に宰相のような立場になり、なんと40以上の役職を一人で抱えるという前代未聞の権力を手に入れました。
政権を握ったあと、安史の乱へとつながる
しかし、楊国忠の政治のやり方はうまくなく、『旧唐書』や『資治通鑑』には、自分だけの利益を考える人だったと書かれています。辺境を守っていた将軍・安禄山(あん ろくざん)ともどんどん仲が悪くなり、それが安史の乱(755年)が起きるきっかけの一つになりました。
756年、玄宗が長安を逃げ出して蜀へ向かっている途中、馬嵬駅(ばかいえき)で兵士たちが反乱を起こし、楊国忠はその場で殺され、楊貴妃も自害させられることになりました。
親せきの力で出世した代表的な例
楊国忠が出世できたのは、楊貴妃が皇帝にとても愛されていたからです。彼自身に特別な能力があったわけではなく、むしろ「偉い人の親せき」というだけで高い地位についた悪い見本として、後の時代の人たちはよく批判しています。
ただ、彼の人生は「自分の欲」「宮中の争い」「国が弱くなり始めた兆し」が重なった、とても興味深い出来事でもあります。

