唐はなぜ西域に安西都護府を設置したのか?

唐はなぜ西域に安西都護府を設置したのか?

歴史が好きな人のために、この記事では「唐の国がなぜ西域に安西都護府をつくったのか」を、戦い・お金・文化の3つの視点から、わかりやすくまとめました。

安西都護府って何?

安西都護府(あんせいとごふ)は、唐の皇帝・太宗が640年(貞観14年)に、今の中国・新疆ウイグル自治区にある吐魯番の近く、交河城(こうがじょう)に作った、西域で一番上の軍と政治をまとめる役所です。その後、その本部は亀茲(きじ、今の庫車市)に移されて、亀茲・焉耆・于闐・疏勒という4つの重要な町(安西四鎮)を一緒に管理するようになりました。

理由①:西突厥と戦う必要があったから

7世紀の初めごろ、西域は西突厥(せつとっけつ)という勢力がにぎっていて、唐が西のほうへ広がったり、交易の道を使ったりするのをじゃましていました。

630年に伊吾(今のハミ)が唐についたあと、640年には高昌国(こうしょうこく)を攻めて滅ぼし、そこを西州として唐の直轄地にしました。そして同じ年に安西都護府を新しくつくって、西域での唐の軍の力をしっかり示しました。これによって唐は西突厥の影響を少しずつ弱め、天山山脈の南北両方を自分の支配下に入れていくことができました。

理由②:シルクロードを安全に使うため

西域は、中国と中央アジア、ペルシア、ヨーロッパをつなぐシルクロードの真ん中にあって、とても大事な場所でした。

都護府ができることで、商人たちの隊列が安全に通れるようになり、国に入る税金や関税の収入も安定しました。そのおかげで、絹や香料、宝石、馬といったものがよく売買されるようになり、地域全体の商売が活発になりました。また、この役所はただの軍の基地ではなく、市場の運営や商売のルールを守る仕事もしていました。

理由③:いろんな民族がいる地域をうまく治めるため

西域には漢人だけでなく、ソグド人やウイグル系の人々、チベット系の集団など、さまざまな民族が暮らしていました。

唐の政府は、現地の有力者を役人に使うやり方と、自分たちの役人を送り込むやり方を両方使って、うまく統治しようとしました。また、仏教やゾロアスター教、マニ教など、いろいろな宗教が一緒に暮らせるようにも配慮しました。さらに、漢字や法律の仕組み、町のつくり方などを広めることで、東アジアと中央アジアの文化が自然に混ざり合う流れができていきました。

安西都護府のその後の動き

658年には本部が亀茲に移されて、「安西大都護府」という名前に変わりました。しかし8世紀の後半になると、チベット帝国(吐蕃)が攻めてきて、だんだん力が弱まっていきました。そして790年ごろ、最後の責任者だった郭昕(かくしん)が戦いで命を落とし、実際にはもう機能しなくなりました。

まとめ

目的
戦い 西突厥に対抗して、西域を守ること
お金 シルクロードを安全に使い、交易で利益を得ること
政治・文化 色んな民族や宗教が混ざる地域をうまくまとめて治めること

安西都護府は、ただの辺境の小さな基地ではなく、唐の国全体の戦略を支えるとても大切な拠点だったのです。