
唐玄宗(李隆基)とその息子・唐粛宗(李亨)の間には、ただの親子関係ではなく、とても深い政治的なもめごとがありました。
1. 前提:安史の乱と玄宗の逃げ出し
755年に安禄山が反乱を起こして(これが安史の乱)、唐の国は崩れそうになりました。756年、都の長安が敵に取られると、唐玄宗は楊貴妃や側近たちと一緒に今の四川省にあたる蜀へ逃げました。
その逃げ道の途中で馬嵬駅の変が起き、兵士たちが楊国忠と楊貴妃を殺すよう強く求めました。玄宗はしかたなくこれを受け入れましたが、そのせいで太子・李亨(後の粛宗)との間にわだかまりが生まれました。
2. 霊武での即位:粛宗による実質的な政権の乗っ取り
馬嵬駅で父と別れた李亨は、自分の軍を率いて今の寧夏回族自治区にある霊武に向かい、756年7月12日に父の許可もなく皇帝を名乗り、唐粛宗となりました。
同時に、遠く離れた蜀にいる玄宗を一方的に「太上皇」と呼んで、表面上は敬っているふりをしましたが、実際には権力を自分のものにしたのです。
注目点:当時の唐の中央政府はほとんど動かなくなっていて、新しい指導者がすぐに必要でした。それでも、李亨のやり方は普通とは言えませんでした。
3. 玄宗の戻りと二つの政権の同時存在
最初、玄宗は息子の即位を認めませんでしたが、数週間後にやむを得ず了承しました。しかし、すべての権限を手放すことは拒み、「幸普安郡制」などを出して江南地方への影響力を残そうとしました。
そのため、唐の中には成都(玄宗)と霊武(粛宗)という二つの政治の中心が同時にできて、これは粛宗の政権の正当性を大きく揺るがす問題となりました。
4. 長安の奪還後のぎくしゃくと玄宗の見張り生活
757年、郭子儀らの活躍で長安が取り返されると、玄宗は都に戻りました。ところが粛宗は父を興慶宮に移して、自由を奪いました。
さらに、玄宗が昔の家来や一般の人と会うのを心配し、宦官の李輔国を使ってきびしく見張らせたため、玄宗は孤独な晩年を過ごすことになりました。
5. 最期とその後:悲しい父子の終わり
- 762年5月3日:唐玄宗が亡くなる(78歳)
- 762年5月16日:唐粛宗がわずか13日後に亡くなる(51歳)
二人の死がとても近かったため、「粛宗が毒を使った」という噂が後世に広まりましたが、それを裏付ける確かな証拠はありません。ただ、この父子のもめ事が唐の立て直しを邪魔し、宦官がのさばったり、地方の軍の力(藩鎮)が強くなったりするきっかけになったのは間違いありません。





