
楊貴妃(ようきひ)は、唐の玄宗皇帝にとても大切にされた、中国で有名な美人です。『旧唐書』などの古い記録では、756年に「安史の乱」という大きな騒ぎの中で馬嵬坡(ばかいは)で自ら命を絶ったと書かれています。でも日本では昔から、「彼女は死んでおらず、船で海を渡って日本に来た」という話が伝えられています。特に山口県長門市の油谷町には「楊貴妃の墓」と言われる五輪塔があり、今も観光地になっています。
1. 日本で言い伝えられている楊貴妃の物語
■ 山口県・二尊院にある「楊貴妃の墓」
山口県長門市油谷町の久津という場所にある二尊院(にすういん)には、楊貴妃のお墓とされる石塔があります。地元の人たちはここを「楊貴妃の里」と呼び、観光にも力を入れています。特徴的なのは、その墓が西――つまり中国の方向を向いていることです。
また、近くの弁天島神社では、楊貴妃が音楽や美しさの女神である弁才天としてまつられていて、彼女が日本に流れ着いたあと、この地で静かに暮らして最後を迎えたという話が代々伝えられています。
■ 伝わっている話の内容
馬嵬坡での出来事のとき、楊貴妃は侍女の人が身代わりになってくれたおかげで殺されずに済み、信頼できる家来や遣唐使の助けを借りて船に乗って東シナ海を渡り、757年ごろに山口県の久津の海岸にたどり着いたとされています。その後、孝謙天皇の宮中に迎えられ、唐の文化や音楽を広め、年をとって病気になり、村の人たちによって葬られたと伝えられています。
2. この話の根拠とされているもの
■ 古い本に書かれていること
平安時代の終わりごろに書かれた随筆『江談抄』には、道士が楊貴妃をこっそり日本に連れてきたという話が出てきます。また、江戸時代の山口地方の地誌『風土注進案』にも、楊貴妃の墓についての記述があります。さらに、白居易が書いた有名な詩『長恨歌』の一節「馬嵬坡の土の中には、美しい顔は見えず、ただ死の跡があるだけ」という言葉を、「実は生き延びた」と考える人もいます。
■ 地元に残るものと暮らしの中の姿
二尊院には楊貴妃をかたどった像や観音像が置かれています。奈良の東大寺に「唐貴妃供養碑」があるという噂もありますが、それを裏付ける確かな記録はありません。一方で、地元では「楊貴妃の夢」という名前のコメや「楊貴妃パン」といった商品が売られており、すでに地域の文化の一部となっています。
3. 歴史の専門家はこの話をどう見ているか?
■ 中国の古い記録では
『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』といった信頼できる歴史書はすべて、楊貴妃が馬嵬坡で高力士という人に首を絞められて亡くなったとハッキリ書いています。処刑のあと、玄宗皇帝が遺体を確認したところ、「香り袋だけが残っていた」とあり、これは暑い時期だったため体がすぐに傷んでしまったと考えれば、自然な話です。
■ 日本の研究者の意見
作家の井上靖さんや研究者の渡辺龍策さんは、楊貴妃が生き延びた可能性を示唆しています。しかし、今の歴史学の主流(中国も日本も)では、日本に来たという話は「物語」や「作り話」だと考えられています。その理由はいくつかあります。まず、当時の遣唐使の船の行き先や日程と合わない点があります。次に、8世紀の日本の公的な記録の中に「楊貴妃」と分かる人物がまったく登場しないことです。さらに、この話の多くは江戸時代以降、特に最近になって盛んに語られるようになったものです。
■ 文化としての意味
香港中文大学の呉偉明(ゴ・ワイミン)教授は、「日本の楊貴妃の話は、中国の文化を受け入れながら自分たちなりに作り直した象徴的な物語で、本当かどうかより、それが持つ文化的な意味の方が大きい」と話しています。つまり、「本当に来たのか」よりも、「なぜ日本人がこの話を大切にしてきたのか」を考えることが大事だということです。
最後に
楊貴妃が実際に日本に逃げてきたことを証明する確かな歴史の証拠はありません。でもこの話は、能楽や小説、絵、観光などさまざまな形で、日中両国の文化交流の象徴として今も生き続けています。特に山口県の「楊貴妃の里」は、異なる文化をつなぐシンボルとして、現代でも意味を持っています。





