
七五六年に安禄山の反乱が起きている最中に太子だった李亨(のちの粛宗)が霊武で帝位に就いて父の玄宗を太上皇にした出来事は、昔から国を守るためのやむを得ない継承だと言われてきましたが、文献を詳しく調べてみるとこれが実は軍事クーデターでありその後も続く激しい権力争いの始まりだったことがわかるので。
1. 霊武での即位:許諾のない簒奪行為
父帝が知らないままの即位
馬嵬駅の変の後に玄宗が蜀へ逃げて太子が朔方軍の本拠地である霊武へ行った際に宦官の李輔国から勧められた李亨は父皇からの正式な譲位詔書なしに皇帝として即位してしまい、玄宗が新しい皇帝のことを知ったのは使者が蜀に着いた後だったので『旧唐書』に残っている「吾児応天順人、吾復何憂」という言葉はもう決まったことに対する事後承認に過ぎず、皇統の正統性が父子間の受け渡しではなく軍団の擁立で成立してしまったことが後の悲劇の根本原因になりました。
二重権威構造の出現
粛宗は表向きは太上皇を敬いつつも天下の軍国事務は全て皇帝の許可を経るべきだという詔勅を出させて名前は尊崇でも実際は政治的な排除措置そのものだったため、長安を取り戻した後にはこの構造的な矛盾が一気に表面化することになります。
2. 太上皇の軟禁:李輔国による徹底的弾圧
興慶宮から太極宮への強制移動
長安に戻った後に玄宗は興慶宮(南内)で暮らし高力士や陳玄礼ら古い家臣に支えられてある程度の自由を持っていましたが、上元元年(七六〇年)に権力を持つ宦官の李輔国が太上皇の周りに復位の計画があると粛宗に言って大内の太極宮へ強制的に移住させた際には、愛馬三百頭のほとんどを没収して残されたのはたった十頭だけになり、側近の高力士を流刑にして陳玄礼を引退に追い込み、世話をする人を老人や弱い人だけに変えて外部との連絡を完全に断つという措置が行われました。
粛宗の黙認と統治能力の欠如
特に注目すべきはこれらの処置が新しい皇帝の暗黙の了解のもと行われた点であり、粛宗自身も父の復位を恐れていて李輔国の強硬な手段を実質的に認めていたために病気の父皇を見舞おうとした時も李輔国に止められて叶わなかったことは、皇帝自身がすでに宦官勢力に依存しきって主導権を失っていた証拠だと言えます。
3. 衝突の本質:正統性のなさが招いた恐怖政治
粛宗が父を迫害した本当の理由
二人の対立は単なる親子の不和ではなく正規の手順を経ない即位という原罪が政権にずっと不安定さをもたらしたものであり、その要因としては譲位詔書なしの即位なので常に簒奪者のレッテルがつきまとったことや、朔方軍と宦官の支持だけが唯一の権力の源だったこと、「開元の治」の創始者としての威信が今の政権の正当性を弱めたこと、そして李輔国が自分の権力を維持するためにわざと父子の分断を煽ったことなどが挙げられます。
| 要因 | 具体的な内容 |
|---|---|
| 正統性の不在 | 譲位詔書なしの即位なので常に簒奪者のレッテルがつきまとった |
| 軍事基盤への依存 | 朔方軍と宦官の支持だけが唯一の権力の源だった |
| 玄宗の象徴的権威 | 「開元の治」の創始者としての威信が今の政権の正当性を弱めた |
| 宦官の自己利益 | 李輔国が自分の権力を維持するためにわざと父子の分断を煽った |
結末:誰も勝者になれなかった抗争
この権力闘争は当事者の誰にも幸せをもたらさず、玄宗は七六二年に孤独と抑うつの中で亡くなり(享年七十八歳)、粛宗も同じ年に張皇后と李輔国の抗争の衝撃を受けて病床で驚いて死に(享年五十二歳)、唐王朝は宦官が天皇の廃立を左右する悪い習慣が定着して中央集権体制の衰退が決定的になりました。





