
正史(せいし)とは、中国でそれぞれの王朝が国として正式に認めた歴史の本のことで、「二十四史」がその代表です。これらはただの記録ではなく、国がしっかりとしたルールに従って作った「官修史書(かんしゅうしそ)」であり、大規模な国家プロジェクトでした。
1. 正史とは何か? ― その意味と役割
正史は、「紀伝体(きでんたい)」という形式を使った、一つの王朝だけの歴史(断代史)をまとめたものです。『史記』から『明史』まで全部で24冊あり、清朝の乾隆帝の時代になって「二十四史」として正式に定められました。
- 内容のつくり:皇帝の行動や出来事を書いた「本紀」を中心に、家来たちの伝記である「列伝」、制度や文化についての「志」、家系をまとめた「表」などが含まれています。
- なぜ作ったのか:前の王朝の治め方を評価し、今の王朝が正しい支配者であることを示すための、政治的な目的も持っていました。
2. 官修史書制度のはじまり ― 唐の史館設置が大きな転機
中国で国が歴史を公式にまとめる制度が整ったのは、唐代(618–907年)のことです。
- 貞観3年(629年):唐の太宗が門下省の中に史館(しかん)という専用の部署を作りました。
- 責任者は宰相:歴史をまとめる全体の責任は、国のトップの一人である宰相が引き受けました。これは公平にするためではなく、国が歴史の内容をきちんと管理するためでした。
- 専門の人がいた:皇帝の日常を記録する起居注官や、政策の決定を書き留める時政記官など、段階ごとに資料を集めて整理する専門の役人が配置されていました。
こうして、それまで個人が書いていた歴史の本が、国が進める大きな事業へと変わりました。
3. 正史を作る4つのステップ ― 決まった手順があった
唐代以降、正史を作るには以下の4つの段階を順番に踏むのが普通でした。
(1)起居注(きょきょちゅう)
- 何を書くか:皇帝の毎日の言動、会議でのやりとり、儀式の様子など。
- 誰が書くか:左史が発言を、右史が行動をそれぞれ記録しました。
- ルール:「君挙必書」(君主の行動は必ず書く)が原則で、皇帝自身も中身を見ることは許されませんでした。
(2)時政記(じせいけい)
- 内容:宰相を中心に、朝廷で決められた大事な政策や事柄を文書にまとめます。
- 役割:起居注だけでは分からない政務の詳細を補うために使われました。
(3)実録(じつろく)
- いつ作るか:皇帝が亡くなったあとに作成されます。
- 内容:在位中に起きた出来事を日付順に詳しく記録します。
- 重要さ:『唐太宗実録』や『明実録』などが有名で、正史を書くときに最も頼りになる一次資料とされていました。
(4)国史 → 正史
- 国史:その王朝が自分たちの歴史をまとめたもの。
- 正史:次の王朝が、前の王朝の国史や実録をもとに新しい歴史書を作ります。これが「二十四史」の一つ一つにあたります。
言い換えると、正史は「新しい王朝が前の王朝をどう見たか」を示す公式の評価であり、勝った側の物語ともいえます。
4. 実際の編纂の現場 ― 誰が何をしていたか
正史の作成は、多くの人が協力して進める大がかりな仕事でした。たとえば『宋史』『遼史』『金史』は、元の宰相脱脱(トクト)が全体を取り仕切り、複数の学者が章ごとに分かれて原稿を書き、最後に脱脱が全体をチェックしてまとめました。
主な役割:
- 総裁(そうさい):全体の責任者(だいたい宰相が務める)
- 編纂官:それぞれの章を担当して執筆
- 提調官・校對官:必要な資料を集めたり、間違いを直したりする
- 謄写官:最終稿をきれいに書き写す人
このように、現代の本作りにも通じるような役割分担の仕組みがすでにできていました。
5. 日本との違い ― なぜ中国だけが続けられたのか?
日本にも『六国史』のような国が作った歴史書がありますが、平安時代のあと続きませんでした。一方、中国では清の終わりまでこの制度が続きました。その理由は次の通りです。
- 科挙があった:歴史の知識は役人になるための試験で必ず出る科目だったので、学問として重視されました。
- 易姓革命の考えがあった:王朝が変わるのは「天の意志」によるものだとされ、前の王朝の歴史をきちんと評価することが、新しい王朝の正当性を証明することにつながりました。
- 記録の管理がしっかりしていた:中央集権的な政府のおかげで、大量の文書をきちんと保存し、次の時代に渡すことができました。
まとめ
正史は「事実だけをそのまま書いた本」ではありません。それはその時代の権力者が認めた公式の物語です。しかし、その裏で行われていた資料の集め方や文章の整え方は、世界でも非常にしっかりとしたシステムでした。





