
楊国忠(よう こくちゅう)は、唐玄宗の時代に大きな力をもった外戚の政治家で、最初は「勉強もせず、行儀も悪くて」「博打好きでだらしない」と言われて親族からも見捨てられていましたが、十数年という短い間に宰相まで上り詰め、これは中国の歴史の中でもとても珍しい話です。
出自は名門だが、若いころはとても苦労した
楊国忠(本名:楊釗/よう ちょう)は、今の山西省永済市にあたる蒲州永楽で生まれて、弘農楊氏という有名な家の末裔でしたが、若いころはずっと不幸でした。
彼は酒ばかり飲んで賭博にふけり、勉強もしなかったため、『旧唐書』には「親族さえも見下した」と記録されていて、30歳くらいになってようやく蜀(今の四川省)に行き、新都県尉という地方の役人として働き始めました。これが彼の公務人生の最初のきっかけでしたが、当時は誰も彼が将来、朝廷で一番偉くなるとは思っていませんでした。
人生を変えたのは従妹・楊貴妃だった
楊国忠の運命が大きく変わったのは、いとこの楊玉環(後の楊貴妃)が唐玄宗のお気に入りになったときで、742年ごろに楊貴妃が正式に宮廷に入り、玄宗の強い信頼を得たことで、当時剣南節度使だった章仇兼瓊が宮中に味方がほしかったため、楊国忠を「楊家のつながりがある人」として長安に送りました。
楊国忠は贈り物を持って都に行き、楊貴妃の姉妹たちの紹介で玄宗の前で樗蒲(チョボ、昔の賭博)を見せると、その機転のよさと明るい態度が玄宗の気に入り、すぐに注目されるようになり、ここから彼の急な出世が始まりました。
財政の仕事で信頼を勝ち取った
楊国忠は、玄宗が大切にしていた「国のお金」と「楽しい場」をうまく使い、どんどん信頼を集めました。748年には給事中と御史中丞に任命され、国の財政(度支)を一人で任されるようになり、左蔵庫(国の金庫)に金や銀をたくさん積み上げて玄宗に「国が豊かだ」と思わせ、「国忠は国を富ませる」とほめられました。
最初は宰相の李林甫と協力して太子の仲間を攻撃していましたが、次第に二人の間でいざこざが起き、李が亡くなったあと、楊国忠はその地位を引き継ぎました。
宰相になって、一番の権力者に
752年に李林甫が亡くなった後、楊国忠は右相(事実上の宰相)になり、兵部尚書、吏部尚書、剣南節度使など40以上の重要な仕事を同時に引き受けて、文官でも武官でも大きな影響力を持つようになりました。
また、もとの名前「釗」には「金+刀」という不吉な意味があると思ったため、自分で「国忠」と改名し、玄宗はこれを「国に忠実な人」と理解して喜んで認めました。このとき、楊国忠は唐の国で実質的に一番の力を持つ人物となっていました。
最後に
楊国忠がこれほど早く高い地位まで上がれたのは、まず楊貴妃という宮中の強い味方がいたこと、次に玄宗の気持ちをよく読み取れたこと、そしてお金や軍の仕事で実際に成果を出せたことの三つが大きな理由です。
しかし、彼のわがままな態度と安禄山との対立が原因で755年に安史の乱が起き、翌756年には馬嵬駅の変で護衛の兵士たちに殺されてしまい、それまでの栄えはあっという間に終わりました。彼の一生は、唐の国が繁栄から衰退へ向かう様子をそのまま表していると言えます。





