
紀元前206年に秦の国が崩れると、その首都だった咸陽(かんよう)は大きな火事に見舞われて、『史記』には「火が3か月も消えなかった」と書かれているほどで、これは中国の歴史の中でも特に有名な出来事の一つです。
咸陽を燃やしたのは項羽(こうう)だった
秦の終わりごろ、巨鹿(きょろく)の戦いで秦軍の主力を倒した西楚の強い将・項羽は関中(かんちゅう)地方へ進んでいきました。そのときにはすでに劉邦(りゅうほう)が咸陽に入っていて、秦の最後の王・子嬰(しいえい)を降参させていましたが、項羽はそれを気にせず自分も咸陽に入り込みました。
『史記・項羽本紀』には次のようにあります:
「項羽引兵西屠咸陽、殺秦降王子嬰、焼秦宮室、火三月不滅」
つまり、項羽は兵を率いて咸陽を攻め、子嬰を殺して秦の宮殿を全部燃やし、その火はなんと3か月間も続いたということです。これはただの戦いの一部ではなく、秦への恨みを晴らすためと自分の力を示すためにわざとやった破壊行為でした。
燃やされたのは「阿房宮(あぼうぐう)」だったのか、「咸陽宮」だったのか?
多くの人が「項羽が阿房宮を燃やした」と思っていますが、実は『史記』には「阿房宮」という言葉は一言も出てきません。書かれているのは「秦宮室」——つまり秦の宮殿全体のことです。
発掘調査でわかったこと
- 阿房宮はまだできていなかった:2002年からの中国社会科学院などの調査によると、阿房宮は土台しか作られておらず、実際に完成していませんでした。
- 焼けた跡は咸陽宮のあたりに集中している:咸陽宮の遺跡からはたくさんの炭や焼けた土が見つかりましたが、阿房宮の場所では焼けた土のかけらが数個しか出ていません。
- まとめると:項羽が燃やしたのは「咸陽宮を中心とした秦の宮殿群」であり、阿房宮ではないと考えられます。
唐代の詩人・杜牧(とぼ)は『阿房宮賦』で「楚の人(項羽)が松明一つで、哀れにもすべてを灰にした」と歌っていますが、これは文学的な言い回しであって、本当の歴史とは違います。
項羽が咸陽を燃やした理由とは?
- 昔の恨みを晴らしたかった:項羽の祖父・項燕(こうえん)は楚の将軍で、秦が楚を滅ぼしたことをずっと恨んでいました。項羽もその思いを引き継いでいました。
- 政治的な判断を誤った:家来の范増(はんぞう)は「関中にいれば天下を取れる」とアドバイスしましたが、項羽は「お金持ちになっても故郷に帰らなければ、夜にきれいな服を着るのと同じだ」と言って、東の地へ帰ることを選びました。
- 略奪と恐怖で自分を強く見せたかった:宝物や女性を奪い、秦の権力を表す建物を燃やすことで、自分の強さを周囲に知らせようとしたのです。
今も残っている跡とその意味
現在、陝西省西安市の郊外には「秦咸陽城遺址(しんかんようじょういせき)」があり、国の大事な文化財に指定されています。2017年の調査では、高さ約5メートルの土の壁や龍の模様が入った中空のレンガなどが見つかっており、秦の国の大きさや力強さを今に伝えています。








