秦の時代はなぜ法家思想を国の統治方針として選んだのでしょうか?

秦の時代はなぜ法家思想を国の統治方針として選んだのでしょうか?

中国で初めて国を一つにまとめた秦は、なぜ「法家(ほうか)」という考え方を国の基本に決めたのでしょうか。

1. 法家って何?―今の「法治」とは違う王のためのルール

法家は、紀元前5世紀から3世紀ごろに中国で広まった政治の考えかたで、有名な人には商鞅(しょうおう)韓非子(かんぴし)、李斯(りし)などがいます。この流派では、国をうまく治めるために次の3つを大事にしました。

まず「法(ほう)」とは、誰でもわかるように書かれたルールで、身分や知り合いかどうかに関係なく、みんな同じように扱うことです。次に「術(じゅつ)」は、王が家来をうまく使うためのコツや策略です。そして「勢(せい)」は、王が持つ絶対的な力と威厳を指します。

注意:これは現代の「法治国家」とは違います。法家では、ルールは「王が民をしっかり管理するための道具」だと考えていました。

2. 秦が法家を選び取った3つのわけ

(1)商鞅の改革で国が急に強くなったから

紀元前4世紀、秦孝公は弱かった秦を強くするために衛の国から来た商鞅を呼び寄せ、彼に国を変える仕事を任せました。商鞅は、戦いで功績を立てた人に位を与える制度を始め、農業を奨励して商売を抑え、さらに家ごとの登録と隣人同士が互いに責任を負う連帯制を導入しました。この「商鞅変法」によって秦は短期間で軍事力も経済力も大きく伸ばし、それ以来、秦の王たちは「ルールこそが国を強くする鍵だ」と信じて法家の道を歩み続けました。

(2)乱れた時代にはすぐ効く実用的なやり方が必要だったから

春秋戦国時代は、道徳や礼儀が通じない激しい争いの時代でした。儒教のように「人の心を大事にせよ」という話は現実離れしていると思われ、代わりにすぐに結果が出る法家の実用的な方法が多くの国の指導者に支持されました。特に秦は中原の国々から「辺境の野蛮な国」と見られていたため、古い習慣にとらわれず、役に立つやり方を素直に取り入れやすかったのです。

(3)広い国をまとめるには中央からの強い支配が欠かせなかったから

紀元前221年、秦始皇が六つの国を全部併合して一つの国にすると、今度は「こんなに広い領土をどうやって治めるか」が大きな課題になりました。土地を家来に任せる分封制ではまたバラバラになる危険があった一方で、中央が直接治める郡県制なら全国で同じルールを適用できました。法家の考え方は、王の力を最大限に高め、地方が勝手に動けないようにする点で、新しい秦の国づくりにぴったりだったのです。

3. 法家を使った結果:よかった点と問題になった点

よかった点:史上初の統一国家と仕組み作り

文字やお金、ものさしや重さの単位を全国で同じにしたり、長城や広い道(馳道)を建設したり、中央から命令が届く役人制度と住民登録を整えたりしたのは、すべて「ルールで国を一つにまとめる」という法家のやり方による成果でした。

問題になった点:厳しすぎるルールで民衆の不満がたまり、国が早く滅んだ

しかし、無理な働き(労役)や高い税金、残酷な罰(たとえば家族全員が処罰されたり、隣人も一緒に罰されたりすること)が人々の怒りを買い、秦は建国からわずか15年で崩れてしまいました。漢の時代になると、「法家=ひどい政治」というイメージが広まり、長い間その評価が続きました。