趙高はなぜ秦始皇の遺詔を改竄したのか?

趙高はなぜ秦始皇の遺詔を改竄したのか?

秦の国が急に滅びた大きな原因の一つとされる「沙丘の変(さきゅうのへん)」で、裏から動いていた趙高(ちょうこう)は、秦の初代皇帝・始皇帝が亡くなったとき、本来後継者になるはずだった長男の扶蘇(ふそ)ではなく、次男の胡亥(こがい)を次の皇帝にしました。

1. 始皇帝の最期と伝えたかったこと

紀元前210年、始皇帝は5回目の地方視察中に、今の河北省広宗県あたりにある沙丘という場所で病気になり、突然亡くなりました。『史記』という当時の記録によると、彼は死ぬ直前にこんな言葉を伝えました:

「兵を蒙恬(もうてん)に属し、喪に会して咸陽(かんよう)に葬れ」

これは、「軍隊は蒙恬に任せて、喪に服したら都の咸陽に戻って葬儀をせよ」という意味です。多くの専門家は、この言葉から、扶蘇を次の皇帝にするつもりだったと読み取っています。

2. 趙高が抱えていた不安

当時、趙高は「中車府令(ちゅうしゃふりょう)」という重要な役職についていて、皇帝の印や公文書を管理する仕事をしていました。しかし、彼にはとても心配なことがありました:

  • 扶蘇とはうまくいっていなかった:扶蘇は儒教の教えに共感していて、法家思想に基づく秦の厳しい政治をよく思っていませんでした。しかも、将軍の蒙恬とは非常に仲が良かったのです。
  • 自分の命が危ないと思った:かつて趙高は罪を犯して死刑になりかけましたが、蒙恬の弟である蒙毅(もうき)が処罰しようとしました。もし扶蘇が皇帝になれば、趙高は権力を失うだけでなく、殺されてしまうかもしれないと感じていたのです。

3. クーデターの実行:李斯との協力

趙高は一人では何もできないと考え、宰相の李斯(りし)を味方につけることに決めました。

  • 李斯にも不安があった:李斯もまた、扶蘇が皇帝になると自分の地位が危なくなると思っていました。扶蘇は儒教を大切にしていて、法家の代表格である李斯の影響力は弱まると予想されたためです。
  • 三人で話をまとめた:趙高は胡亥を説得して、「国の実権は君と私と丞相(李斯)の三人にある」と言い、政権をひっくり返す計画を話しました。李斯も最後にはこれに賛成しました。

その結果、次の二つの偽の命令文が作られました:

  1. 扶蘇と蒙恬に自害を命じるもの:「親孝行でなく、国に忠実でない」として、死ぬように指示。
  2. 胡亥を次の皇帝にするもの

扶蘇は父の命令だと信じて、何も言わずに自ら命を絶ちました。蒙恬は疑いましたが、捕らえられて後に殺されました。

4. 歴史の見方と新しい発見

4.1 これまでの通説(『史記』による)

司馬遷が書いた『史記』では、この出来事を「趙高と李斯による策略」としています。そして、秦が二代目で滅んだ大きな理由の一つだとされています。

4.2 新しい資料:『趙正書』の登場

2009年、北京大学が持っている西漢時代の竹簡『趙正書(ちょうせいしょ)』が公開されました。そこには、始皇帝が自分で胡亥を後継者に選んだと書かれていて、遺言を書き換えたという話とは違っています。

ただし、多くの研究者は『趙正書』を「物語のような要素がある補足的な記録」と見ており、今でも『史記』の方がより信頼できると考えています。

5. 結論:趙高が動いた本当のわけ

趙高が遺言を書き換えた一番の理由は、自分の命と権力を守るためでした。扶蘇が皇帝になれば、趙高は政治的にも命の面でも終わりだと感じていました。そのため、リスクを覚悟の上で胡亥を操り人形にして、自分が実際の力を握ろうとしたのです。

この陰謀のせいで、秦の国は急速に弱まりました。「鹿を指して馬だと言う(指鹿為馬)」という話で知られるような恐怖政治が始まり、わずか3年ほどで秦は滅びてしまいました。