白起は40万の降伏兵を生き埋めにしたが、それでも彼を名将と呼べるのか?

白起は40万の降伏兵を生き埋めにしたが、それでも彼を名将と呼べるのか?

戦国時代の秦を代表する武将・白起(はくき)は、「長平の戦い」で趙国の兵士およそ40万人を生き埋めにしたことで有名です。この行動は今の目で見るととても残酷ですが、それでも彼を「名将」と言えるのでしょうか?

白起とはどんな人か? ― 四大名将の中で一番とされる男

白起(?~紀元前257年)は中国戦国時代に秦で活躍した有名な将軍で、「戦国四大名将」(白起・廉頗・李牧・王翦)の中でも特に高く評価されています。
彼は伊闕(いけつ)の戦いで韓と魏の連合軍24万人を打ち破り、楚の都である郢(えい)も攻め落とすなど、数多くの勝利をあげて「武安君(ぶあんくん)」という称号をもらいました。敵を一度にたくさん倒す戦い方が得意で、『史記』には生涯で80万人以上の敵兵を倒したと書かれています。

長平の戦いと「40万人生き埋め」の本当のところ

戦いの流れ

紀元前260年、秦と趙は上党地方をめぐって「長平の戦い」を繰り広げました。最初は趙が経験豊富な廉頗(れんぱ)を総大将にしてじっくり戦うつもりでしたが、秦の策略によって若くて経験の少ない趙括(ちょうかつ)に交代させられ、その結果として趙軍は包囲されて食糧が尽き、全軍が崩れてしまい、約40万人が降参することになりました。

なぜ処刑することになったのか?

白起が降伏した兵士たちを処刑したのは、主に次の3つの理由からです:

  • 裏切られるのが怖かった:直前に秦が手に入れた上党の住民が趙側についていたため、趙の兵も信用できなかった。
  • 食料が足りなかった:40万人もの捕虜を養うだけの食料が秦軍にはなかった。
  • 趙を完全に弱らせたかった:趙の戦力を一気に潰せば、秦が天下を統一するのが早まると考えたのです。

『史記』には「趙の兵は信用できない。皆殺しにしないと、あとで反乱を起こすだろう」というような記述があります。

「40万」という数字は本当なの?

最近の研究では、「40万」という人数は実際より多く書かれている可能性が高いとされています。当時の趙国の兵力を考えると、本当の人数は10万〜20万人くらいだったと考えられており、「生き埋め」という表現も、実は処刑してから穴に捨てただけで、生きたまま土に埋めたわけではないかもしれません。

結論

白起を「名将」と呼べるかどうかは、「名将」をどう考えるかによって変わります。

  • 戦いに強く、作戦がうまければ、間違いなく名将と言えるでしょう。
  • でも、人の命を大事にするかどうかで見るなら、その資格には疑問が残ります。

歴史を考えるときに大事なのは、今の考え方だけで昔の人を責めないこと。当時の状況や考えを理解してから判断することが大切です。白起の行動は確かにひどいですが、それは命をかけた戦国時代という特別な時代だったからこそ起きたことなのです。