呂不韋と趙姫の本当の関係とは一体何だったのか?

呂不韋と趙姫の本当の関係とは一体何だったのか?

「呂不韋と趙姫は本当に恋人同士だったのか?」という疑問は、2000年以上たった今でもよく議論されています。

呂不韋と趙姫ってどんな人たち?

呂不韋(前292年頃 – 前235年)

衛の国で生まれた大金持ちの商人で、後に秦の国のトップである宰相まで上り詰め、「奇貨可居」という言葉で有名になった人物です。また、いろいろな思想を集めて作った『呂氏春秋』という本をまとめたことでも知られています。

趙姫(生没年不明 – 前228年)

中国初の皇帝・嬴政(えいせい)のお母さんで、もとは趙の国にいた女性ですが、後に秦の庄襄王(そうじょうおう)の妻になりました。本当の名前は残っていませんが、「趙姫」と呼ばれて広く知られています。

二人が出会ったきっかけとその目的

『史記・呂不韋列伝』によると、呂不韋は趙の都・邯鄲(かんたん)で、秦の人質として暮らしていた公子・異人(後の庄襄王)と知り合いました。そして「この男は将来、価値が上がる“商品”だ」と思い、異人が王になれるようお金をかけて動きました。その一環として、自分が一緒に暮らしていた趙姫を異人に渡したのです。

これはただの親切ではなく、はっきりとした政治的な作戦でした。

嬴政の本当の父親は誰?妊娠していたという話の真相

ここが一番大きな問題です。

『史記』には「趙姫がすでに子どもを身ごもっていることを知りながら、彼女を子楚(異人)に与えた」と書かれています。つまり、嬴政は実は呂不韋の子どもだったかもしれないということになります。

しかし一方で、同じ『史記』の中の「秦始皇本紀」では、嬴政は異人と趙姫の間に生まれたと明確に記録されており、内容が矛盾しています。

今の歴史の専門家の多くは、この「妊娠していた」という話は後から作られた噂や、敵が流した中傷の可能性が高いと考えています。

莊襄王が亡くなったあとの二人の関係

前247年、莊襄王が亡くなると、13歳の嬴政が王になり、趙姫は太后(王の母)となりました。『史記』には「太后は貞節を守らず、しばしば呂不韋と内通した」とあります。

ところが、呂不韋は次第に「このままではまずい」と感じ始め、代わりに嫪毐(ろうあい)という男を趙姫のそばに送りました。嫪毐は宦官のふりをして宮中に忍び込み、趙姫との間に子どもまで作りました。

この事件は後に「嫪毐の乱」として発覚し、それが原因で呂不韋は権力を失うことになりました。

全体のまとめ

呂不韋と趙姫の関係は、「恋人」や「元の主人と妾」といった簡単な言葉では言い表せません。

  • 最初の段階では、趙姫は呂の側室でしたが、政治的な道具として異人に渡されました。
  • その後、趙姫が王后になると、呂不韋の影響力を広げるための支えとなりました。
  • 最後には、未亡人となった趙姫と呂不韋が再び会って秘密の関係を持ちましたが、それが破綻につながりました。

二人のつながりはまさに戦国時代の権力争いそのものであり、感情よりも計画や打算が優先された典型的な例です。