李斯はなぜ趙高に陥れられて、咸陽で腰斬されたのか?

李斯はなぜ趙高に陥れられて、咸陽で腰斬されたのか?

李斯(りし)は、中国の秦という国を支えていたとても有名な政治家で、始皇帝が中国を一つにまとめるのを大きく助けた人物です。ところが紀元前208年、宮中の役人である趙高(ちょうこう)に「裏切りを企てた」という罪を押しつけられて、都の咸陽(かんよう)で腰斬(ようざん:体を真ん中から切る残酷な刑)されてしまいました。それだけでなく、自分の家族や親せき、子どもたちまで処刑されました。

1. 沙丘の変(さきゅうのへん):一緒に悪いことをしたのが運命を変えた

始皇帝は紀元前210年、沙丘というところで突然亡くなりました。そのとき、そばにいた趙高は遺言を偽って、本来皇位を継ぐはずだった長男の扶蘇(ふそ)ではなく、次男の胡亥(こがい)を新しい王にしようと計画しました。そして李斯をうまく口説いて、自分と同じ側に引き入れました。

  • 李斯は最初は嫌がりましたが、自分の地位を失いたくないと思って、結局、趙高の言うことに従いました。
  • 扶蘇は偽の命令で自殺させられ、胡亥が秦二世として王になりました。

この出来事によって、李斯は趙高に操られるようになり、後に悲惨な目にあうことになります。

2. 趙高のわな:少しずつ李斯を追い詰めていく

秦二世は政治にまったく関心がなく、毎日遊んでばかりいました。そのため、国の実権は趙高が握ることになりました。李斯は何度も忠告しようとしましたが、趙高は次のようなやり方で彼を陥れていきました。

  • 大事な話をわざと邪魔した:李斯が重要なことを伝えようとするたびに、秦二世が遊んでいる時間に会わせるように仕向けました。そのため秦二世は怒って、李斯を信用しなくなりました。
  • 反逆の疑いをかけた:陳勝・呉広の反乱が起きたとき、李斯の息子・李由(りゆう)が守っていた城が敵に取られました。趙高はこれを利用して、「親子で国を裏切ろうとしている」と密告しました。
  • 拷問で嘘の自白をとった:李斯が捕まると、趙高は牢屋でひどい拷問を加え、「反逆した」と言わせました。

3. 残酷な最期:李斯が迎えた悲しい終わり

紀元前208年、李斯は「具五刑(ごけい)」というとてもひどい罰を受けたあと、最後に腰斬されました。『史記』には、処刑される直前に李斯がこんなことを言ったと書かれています。

「もう一度、息子と一緒に蔡(さい)の東の門で犬を連れて野うさぎを追いかける、何でもない日々に戻れたら…」

かつて国を動かしていた大臣が、権力争いのせいでこんなひどい死に方をしたのです。

結論:自分の立場を守ろうとしたことが裏目に出た

李斯の死は、ただの個人のミスではありません。これは秦という国が急に弱まっていった象徴的なできごとです。もし李斯が趙高の誘いを断っていたら、あるいは秦二世に強く意見を言っていたら、歴史は変わっていたかもしれません。でも、自分の地位を守ろうとした気持ちが、逆に自分を破滅へと導いてしまいました。