
広い土地とさまざまな民族をまとめて治めるために、昔の中国の皇帝たちは制度や政治のやり方をうまく工夫し、地方の力が強くなりすぎないようにしてきました。
1. 秦:郡県制と皇帝という新しい権力のかたち
紀元前221年に秦の始皇帝が六つの国をまとめると、「皇帝」という名前を自分で使い始め、全国に郡県制という新しい仕組みを広めました。それまでのように、有力な家が自分の土地を勝手に治める「分封制」はやめさせられました。
- 郡の長(郡守)や県の長(県令)はすべて皇帝が直接選んで任命しました
- 役人を定期的に違う場所に移すことで、地元の人たちと深くつながって独自の力を持つことを防ぎました
- 中央では丞相・太尉・御史大夫からなる三公九卿制をつくり、政治、軍、監視の仕事をそれぞれ別の人に任せました
こうして、はじめて「中央が地方を直接管理する」体制ができあがりました。
2. 漢:推恩令と刺史を使った遠まわしの支配
漢の時代には、最初のうちは一部の地域で昔の分封制を残していました(これを郡国併行制といいます)。しかし、後に諸侯の力が大きくなりすぎないように、新しいルールを出しました。
- 推恩令では、諸侯の領地を長男だけでなく他の息子たちにも分けるように決めたため、自然と一つひとつの領地が小さくなっていきました
- 刺史制度では、国全体を13の州に分けて、中央から送られた刺史が地方の役人たちの働きぶりをチェックする役目を負いました
- 後の漢の時代になると、「州牧」という役職が軍も政治も一気に握るようになり、逆に地方の力が強くなりすぎて、黄巾の乱や後の三国時代につながる原因となりました
3. 唐~宋:道や路による区切りと文官中心のやり方
唐の時代には、「道-州-県」という三段階の区切りが使われるようになりました。もとは道はただの監察エリアでしたが、安史の乱のあと、節度使という役人が軍と政治を自分だけで握るようになり、またしても地方の力が強くなる問題が起きました。
宋の時代はその失敗を学んで、次のように改善しました:
- 軍の権限、お金の管理、行政の仕事はそれぞれ別の役人に担当させました
- 地方の役人には、科挙という試験に合格した文官だけを使うようにしました
- 「路」という大きな区画単位で役人をしょっちゅう異動させることで、地元の人と仲良くなりすぎて勝手な行動を取らないようにしました
4. 元~清:行省という仕組みと民族をうまく使う統治
元の時代には、モンゴル人が広い地域をまとめて治めるために、行中書省(通称:行省)という新しい制度をつくりました。これが今の「省」という区画の始まりです。
- 行省のトップは、中央にある枢密院や中書省の指示に従うようになっていました
- 軍と行政を一緒に扱うことができましたが、同時に中央からの監視も常に受けていました
明と清の時代にはさらに発展し、こうなりました:
- 明では、布政使司(政治)、按察使司(監察)、都指揮使司(軍)の三つに役割を分けて、一つの人が全部を握れないようにしました
- 清では、いくつかの省をまとめて見る「総督」や「巡撫」という役職を置き、満州人を重要なポストに置いて漢人の役人とバランスを取るようにしました
5. どの時代にも共通していた基本的なやり方
どの王朝でも同じように使われていた主な方法は次のとおりです:
| 方法 | 内容 |
|---|---|
| 役人の決め方は皇帝が全部やる | 誰をどこに任せるか、いつ移すかは皇帝が自分で決めていました |
| 監視する人を常につける | 刺史や御史、按察使など、中央から送られてくるチェック役がいつもいました |
| 試験で役人を選ぶ | 科挙という試験に合格した人だけを役人にすることで、地元の有力者が影響力を広げないようにしました |
| 儒教の教えを広めて心をまとめる | 特に朱子学を大切にして、「皇帝に忠実であること」をみんなに自然に感じさせるようにしました |
結論
地方をしっかり治めることができたのは、ただ強い力で押さえつけるだけでなく、制度を少しずつ改良しながら、役人たちをうまく使いこなすという二つのことがうまく組み合わさっていたからです。そのため、中国は2000年以上も「一つの大きな国」として続いていくことができました。








