
中国で初めて皇帝になった秦始皇(嬴政)は、紀元前221年に六つの国をまとめあげて、中央からしっかり国を治める体制を作りました。でも、そんな大きな仕事を成し遂げた彼の幼いころは、実はとてもつらくて苦しいものでした。特に注目すべきなのは、嬴政が生まれてから9歳くらいになるまで、趙国の都である邯鄲(かんたん)で暮らしていたという事実です。
1. 父・異人が趙国に人質として送られていたため
嬴政が邯鄲で生まれて育った一番の理由は、父親の異人(後の秦庄襄王)が趙国に人質として預けられていたことです。
戦国時代には、国と国が約束を守るために、王族や身分の高い人を相手の国に預ける「人質制度」という習慣がありました。秦国と趙国もお互いにこれをやっていて、異人は王位を継ぐ順番が低かったので、趙国へ人質として送られたのです。
趙国にいる間に、異人は後に嬴政の母となる趙姫(ちょうき)と出会い、二人の間に紀元前259年、嬴政は邯鄲で生まれました。
2. 長平の戦いで秦と趙の関係がこじれた
嬴政が生まれた直後、秦と趙の仲は急に悪くなりました。そのきっかけは、紀元前260年に起きた「長平の戦い」です。
この戦いで秦軍は趙軍を大敗させ、捕まった兵士など40万人以上を殺すというひどいことをしました。そのため趙の国中で秦への怒りが広がり、人質としていた異人とその家族——つまり嬴政と趙姫——に対する敵意も日に日に強くなっていきました。
その後、商人の呂不韋(りょふい)の計画によって異人は趙国からひそかに抜け出して秦国に戻ることができましたが、嬴政と母親の趙姫は取り残されてしまい、「秦の子」として周りから嫌がらせを受けたり差別されたりしながら、ずっと辛い暮らしを強いられることになりました。
3. 幼いころのつらい体験が性格を決めた
『史記』などの古い記録によると、嬴政は小さいころ、趙国の子どもたちから「親のいないやつ」などとからかわれたり、石を投げられたりするような日常的ないじめを受けていました。こうした経験は、彼の心に深い傷を残し、大人になってからの考え方や行動に大きな影響を与えました。
具体的には、次のような傾向が強くなりました:
- 他人をすぐに疑うようになる
- 一度恨んだ相手には強く仕返しをしたがる
- いつも一人ぼっちだと感じやすく、自分を守ることばかり考える
こうした性格が、後に皇帝になった嬴政が厳しい法律を徹底したり、国全体を自分の力でしっかり握ろうとする政治を進める大きな動機になったと考えられています。
4. 秦国に戻ってからの人生の変化
状況が好転したのは紀元前251年のことです。秦の昭襄王が亡くなり、異人が正式に秦の王(庄襄王)になると、ようやく嬴政と趙姫も秦国に呼び戻されました。
嬴政は13歳で秦の王になり、39歳のときに「皇帝」と名乗って、中国で初めて一つにまとまった国「秦」を築き上げました。
最後に
嬴政が邯鄲で育ったのは運命でも偶然でもなく、戦国時代の国同士のやりとりや政治的な事情による当然の結果でした。この過酷な幼少期の体験こそが、後に「厳しい統治者」として知られる秦始皇の考え方や政治の進め方を形作ったと言っても言いすぎではありません。







