丞相と皇帝の本当の関係はいったいどうだったのか?

丞相と皇帝の本当の関係はいったいどうだったのか?

中国の昔の話を知るには、「丞相(じょうしょう)」と「皇帝」の関係をよく見る必要があります。これはただの上司と部下ではなく、天子の力(てんしのちから)と補佐する人の力がいつもぶつかり合っていた長い歴史です。

丞相って何だったの?

丞相は、昔の中国で一番偉い政治を任された人でした。国の役人たちをまとめて、皇帝の手助けをして国を動かす大事な役目を持っていました。正式に「丞相」という名前が使われ始めたのは、戦国時代の秦悼武王2年(紀元前309年)のことです。その後、秦が中国を一つにまとめると、三公九卿という制度の中で中心的な役割を果たすようになりました。

  • 「宰相(さいしょう)」というのは、広く「国を助ける偉い人」という意味で使う言葉で、実際の役職名ではありません。
  • 「丞相」はちゃんと決まった役職で、秦や漢、元などの時代に実際に置かれていました。

秦・漢のころ:丞相が強く、皇帝が警戒した時代

秦の時代

秦の始皇帝は李斯(りし)を丞相にしましたが、二人の関係はずっと不安定でした。『史記』にはこんな話があります。李斯の車の行列があまりに派手だと知った始皇帝は怒りました。でも李斯が質素にすると、今度は「誰が教えたんだ?」と逆に怒ったのです。これは、皇帝が丞相をどれだけ怖がっていたかをよく表しています。

漢の時代

西漢の初めごろ、蕭何(しょうか)や曹参(そうさん)といった建国に貢献した人が丞相になって、軍のこと、政治のこと、裁判のことなど、ほぼすべてを任されていました。しかし、漢武帝の時代になると、皇帝の近くに「内朝(尚書)」という新しいグループを作って、丞相がいる「外朝」を遠ざけ始めました。その結果、丞相の持つ力は少しずつ小さくなっていきました

漢哀帝の時代(紀元前1年)には、丞相という名前が「大司徒(たいしと)」に変わり、実際の影響もさらに弱まりました。

唐・宋のころ:力を分けて一人に任せない仕組み

隋や唐の時代になると、三省六部制(さんしょうろくぶせい)という新しい仕組みができました。それまで丞相がやっていた仕事は、中書令(ちゅうしょれい)、侍中(じちゅう)、尚書令(しょうしょれい)など、複数の役職に分けられました。これは、一人の人に大きな力を与えすぎないための工夫でした。

  • 唐の時代には「政事堂(せいじどう)」という会議の場ができ、三つの省の長が一緒に決め事をするようになりました。
  • 宋の時代には、さらに軍のことを決める枢密院(すうみついん)や、お金のことを扱う三司(さんし)も作られて、それぞれ別のグループが担当するようになります。

このころには、国を助ける人は「何人かで一緒に決める仕組み」の中で働いており、一人ひとりの権限は小さくなっていました。

元・明のころ:一度戻って、そして完全に消える

元の時代

モンゴル人が中国を治めていた元の時代には、中書省に左右丞相が再び置かれました。ただし、本当の力はモンゴルの貴族や色目人(漢人以外の役人)が握っていて、漢人が丞相になっても形だけのことが多いでした。

明の時代

明の初代の皇帝・朱元璋(しゅげんしょう)は、1380年に起きた胡惟庸の事件(こいしゅんのじけん)をきっかけに、中書省をやめさせました。そして、丞相という役職を二度と作らないようにしました。それからは、六つの部署(六部)が直接皇帝に報告するようになり、皇帝が自分で政治を全部決めるようになりました。

このことで、中国で初めて皇帝だけがすべてを決める体制が完成したと言われています。

まとめ:1000年以上続いた力のせめぎ合い

時代 丞相の立場 皇帝との関係
秦・漢初期 とても強い役人 皇帝が警戒して抑えようとした
漢武帝以降 新しいグループが出てきて弱くなった 皇帝の力が強くなった
唐・宋 複数の役職に分かれた 制度で力が抑えられた
一時的に戻った 民族の違いで本物の力がなかった
役職そのものがなくなった 皇帝が全部を決めた

丞相と皇帝の関係は、ずっと**「信じたいけど疑ってしまう」**ようなものでした。皇帝は有能な人を必要としていましたが、その人が自分を倒すかもしれないと思って、いつも気をつけていました。