趙匡胤の死は弟の趙光義に関係しているのか?

趙匡胤の死は弟の趙光義に関係しているのか?

北宋をつくった初代の皇帝である宋太祖・趙匡胤(ちょう きょういん)は、976年10月20日の夜明け前に50歳という若さで急に亡くなった。そのすぐあとで、皇位は実の弟である趙光義(ちょう こうぎ/後の宋太宗)にわたった。ふつうなら帝位は父親から息子へと受け継がれるものなのに、今回は兄から弟へと変わったため、「趙匡胤は弟に殺されたのではないか?」という疑いが千年以上も人々の間で語られてきた。

「燭影斧声」とはどんな話か?

「燭影斧声」は趙匡胤の最期について最も知られているエピソードであり、弟の趙光義が兄を殺したという考えの大きなもとになっている。この話は、北宋中期に生きていた僧侶の文瑩(ぶんえい)が書いた『続湘山野録』という本に初めて出てくる。

そのときのようす

976年10月19日の夜、趙匡胤は体の具合が悪くなり、弟で晋王だった趙光義を宮中に呼び寄せた。二人は屏風越しに酒を飲みながら話をしたが、周りにいた人たちはその内容をまったく聞くことができなかった。外にいた者は、窓越しに室内のろうそくの明かりの中で趙光義が席を立って後ずさりするような動きをしたのを目撃したと伝えられており、また趙匡胤が儀式用の柱斧(じゅふ)で床を強くたたきながら「好做、好做(しっかりやれ、しっかりやれ)」と叫ぶ声も聞こえたという。そしてその夜のうちに趙匡胤は亡くなり、翌朝には趙光義が皇帝になったことが発表された。

この描写はまるで暗殺劇のように感じられ、趙光義が事件に関わっていたように思われる。

「金匱之盟」は本当のできごとだったのか?

一方で、趙光義は自分の即位が正しいことを示すために、「金匱之盟」という約束が昔からあったと言い出した。

その約束の内容とは?

建隆2年(961年)、母の杜太后(とたいこう)が病気になり、趙匡胤と宰相の趙普(ちょうふ)を枕元に呼んだ。そこで杜太后は、「周の世宗が幼い息子に帝位を譲ったせいで国が乱れた。お前が天下を取れたのもそのためだ。だから、お前が死んだら必ず弟の光義に皇位をゆずるように」と言い残した。趙普はその言葉を書きとめて、金の箱(金匱)に入れて宮中にしまいこんだとされる。

これによって、趙光義の即位は「母親の遺言どおりの正当なもの」だとされた。

でも、いくつかおかしな点がある

まず、この約束が公になったのは趙匡胤の死から6年後の太平興国6年(981年)で、そのころには趙光義の地位はすでにしっかり固まっていて、趙匡胤の息子たち(趙徳昭・趙徳芳)はすでに亡くなっていた。また、唯一の証人だった趙普は、約束が明らかになってからわずか2年後に失脚している。さらに、趙匡胤が亡くなった時点では長男の趙徳昭は26歳、次男の趙徳芳は18歳で、どちらも大人だったので、「幼い皇帝」という理由は成り立たない。

こうした理由から、多くの歴史の専門家は「金匱之盟」は趙光義が自分の即位を正当化するためにあとから作り上げた話ではないかと考えている。

病死だったのか、それとも暗殺だったのか?

病死説のもとになるもの

正史『宋史』には「帝崩于万岁殿(帝、万歳殿にて崩御)」とだけ書かれていて、死因については何も書かれていない。趙匡胤は武将として元気だったとはいえ、50歳は当時としては高齢で、脳卒中や心臓の病気などで突然亡くなることは十分にありえた。それに、「燭影斧声」の記録は個人のメモのようなもので、同時代の公式な記録にはまったく出てこない。

暗殺説を支えるポイント

即位の手続きがあまりにも急で、詳しい説明がどこにもない。趙光義が皇帝になったあと、趙匡胤の息子たち(趙徳昭・趙徳芳)だけでなく、弟の趙廷美までもが次々と不審な死を遂げている。さらに、宮中の医者の記録や診察の記録がすべてなくなっていて、情報が意図的に隠された可能性がある。

結論

現在の歴史学の一般的な見方では、「直接的な暗殺の証拠はないけれど、趙光義の即位にはとても不自然なところが多く、何らかの政治的な陰謀があったかもしれない」とされている。

「燭影斧声」は単なる噂話かもしれないが、それが千年以上も語られ続けているということ自体が、趙光義の即位が多くの人に深い疑念を抱かせたことを示している。

歴史は勝った側が書くものなので、趙匡胤の本当の最期がどうだったのかという答えは、おそらく永遠に分からないだろう。しかし、その謎を追い続けることが、歴史を生き生きとさせるのだ。