
都護府(とごふ)は、漢や唐の時代に中国が西域や国境近くの地域を治めるために使っていた重要な軍と政治を兼ねた機関でしたが、この制度は北宋の終わりごろにできた「隴右都護府」を最後に、少しずつ歴史からなくなっていきました。
都護府とは何か?―漢や唐の辺境を治める方法
都護府のはじまりは、前漢の宣帝が神爵2年(紀元前60年)に西域にある36の国々を監督し、シルクロードの安全を守りながら外からの敵を防ぐために「西域都護府」を作ったことにあります。
唐の時代になると、安西・北庭・安東・安南など六つの大きな都護府ができて、広い国境地帯をまとめて管理する仕組みが整いました。これらの都護府は、現地のリーダーを正式に認める一方で、軍の力を背景に間接的に支配する「羈縻(きび)統治」と呼ばれるやり方をとっており、直接行政を行うことは避け、現地の力を利用して治めるのが特徴でした。
北宋の「隴右都護府」―都護府制度の最後の輝き
北宋はもともと「内側をしっかり守って、外にはあまり力を入れない」という考え方を基本にしていましたが、徽宗の崇寧3年(1104年)に青海地方にあった唃厮啰(コクスロ)という政権を倒して、「隴右都護府」を設けました。
これは北宋の歴史上で最も広い領土を持った時期であり、昔の都護府という名前を使って戦略的に前進しようとした試みでしたが、実際にはわずか22年しか続きませんでした。靖康元年(1126年)に金が攻めてきて陝西地方が落ちると、孤立した隴右都護府は西夏や吐蕃の反撃に加えて金軍の圧力にも耐えきれず、あっけなく崩れてしまいました。
その主な理由は次の三つです:
- 金がとても早く強くなったこと:女真族が作った金は短期間で遼を倒し、北宋すらも脅かすほどの力を持ちました。
- 都護府が中原から離れすぎていて、兵糧や援軍を送るのが難しかったこと。
- 吐蕃の部族たちがずっと強く抵抗し続けたため、安定してその地を治めることができなかったこと。
金・元・明・清―都護府の代わりに使われた新しい辺境の治め方
都護府という仕組みが終わると、後の王朝たちはそれぞれ自分たちの時代に合った新しい国境の治め方を考え出しました。
● 元の時代:宣慰司(せんいし)制度
元は国全体を「行省(こうしょう)」に分けて、その下に「宣慰司」という組織を置き、特にチベットや雲貴(うんき)地方では現地のリーダーをまとめさせ、中央にある「宣政院」がそれを監督する形を取りました。
● 明の時代:衛所(えしょ)と都指揮使司
明朝は「都指揮使司(としきしかし)」という機関を地方に置いて、その下に「衛」や「所」という軍の単位を広げ、例えばアムール川流域の奴児干都司や甘粛西部の関西七衛といった辺境では、現地の指導者を衛所の長に任命して間接的に治める「羈縻衛所」というやり方を使いました。
● 清の時代:将軍府と駐蔵大臣
清朝はさらに直接的に国境を治めるようになり、「伊犁将軍」や「盛京将軍」などの将軍府を置いて新疆・満州・モンゴルを軍事的に管理し、チベットには「駐蔵大臣」を派遣してダライ・ラマの体制を見張る仕組みを整えました。こうして、都護府のように「見守るだけ」のやり方ではなく、「直接治める」方式が完成しました。
結論
都護府制度が終わったことは、ただの役所の変更ではありません。これは、「間接的で見守るだけの統治」から「直接的で行政を一つにまとめる統治」へと大きく変わったことを示しています。
北宋の隴右都護府は、昔の漢や唐のやり方をまねただけのもので、金や元以降の王朝はもっと効率的で中央がしっかり握れる新しい制度を作り上げました。この変化こそが、多民族からなる中国という国の一体感を深め、今の中国の領土の基礎になったのです。








