同平章事は宋代にどのように変化しましたか?

同平章事は宋代にどのように変化しましたか?

「同平章事(どうへいしょうじ)」は、「同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかへいしょうじ)」を短くした呼び方で、唐から宋の時代にかけて中国で宰相が持っていた正式な役職名です。この名前には、「中書省と門下省と一緒に国のかじ取りを話し合って進める」という意味があり、唐代に始まって、宋代でも政治の中心で重要な役割を果たしていました。

1. 北宋初期:唐制の継承と「二府三司制」の確立

北宋のはじめごろ(10世紀末から11世紀初頭にかけて)、宋朝は唐や五代のやり方を受け継いで、「同中書門下平章事」を宰相の正式な役職として定めました。

  • 実際には国の行政をまとめるトップとして、同平章事は政事堂(後に「中書門下」と名前が変わる)に所属して日々の政治を動かしていました。
  • ただし、その力はあらかじめ分けておかれており、軍のことは枢密院が、お金のことは三司(塩鉄・度支・戸部)がそれぞれ担当し、長官である枢密使や三司使が指揮をとっていました。
  • このような仕組みを「二府三司制」と言い、宰相一人に大きな力を集中させないことで、皇帝がよりしっかりと国をコントロールできるようにする狙いがありました。

そのため、同平章事はまだ最高の行政責任者ではありましたが、軍や財政の権限がないため、唐代の宰相ほど強い影響力を持っていませんでした。

2. 元豊官制改革(1082年):同平章事の廃止

宋神宗の時代に実施された元豊官制改革(1080年から1082年にかけて)は、王安石の新法と並行して進められ、同平章事という役職に大きな転機をもたらしました。

  • この改革の目的は、唐のはじめにあった三省六部制をもう一度取り入れて、役職の名前と実際にやる仕事の中身を一致させることでした。
  • 具体的には、それまで宰相が集まっていた中書門下(もとの政事堂)をなくし、同平章事を正式に廃止して、代わりに尚書左僕射兼門下侍郎と尚書右僕射兼中書侍郎を新しい宰相として置きました。
  • こうして、宰相は再び三省(中書・門下・尚書)の長が兼任する形に戻り、「同平章事」という名前はしばらくの間、まったく使われなくなりました。

形式の上では唐のはじめの制度に戻ったように見えましたが、実際には手続きが複雑になりすぎて、かえって仕事の流れが悪くなってしまいました。

3. 南宋期:一時的な復活と最終的な消滅

南宋になると、前の制度がうまく機能しなくなったため見直しが進み、同平章事という名前がしばらくの間だけ再び使われるようになりました。

  • 高宗の治世(12世紀なかばごろ)には、元豊改革後の仕組みがあまりにも非効率だったため、同平章事の称号が再導入されました。
  • しかし、孝宗の乾道8年(1172年)にまた新しい制度改革が行われ、宰相の正式な呼び名を「左丞相」と「右丞相」に統一し、これによって「同平章事」は完全に歴史から姿を消すことになりました。

その後、元や明の時代になってもこの役職は復活せず、明代には朱元璋が宰相制度そのものをやめてしまいました。

4. 補足:名誉職としての「同平章事」

宋代には、地方で力を持っていた武将や引退した高官に対して、「使相(しそう)」という形で「同平章事」の名前を与える習慣がありました。

  • これは実際の仕事は一切なく、ただ名前だけをつける名誉の肩書きでした。
  • たとえば、節度使に「同平章事」を加えることで、その人の地位が高いことを示す敬意の表れとなっていました。

このようなやり方は唐代後期からの伝統で、宋代でも格式や威厳を示すための象徴的なものでした。

まとめ

時代 役割 権限 備考
北宋初期 正式な宰相 行政全般(軍・財政を除く) 二府三司制の下
元豊5年(1082) 公式にやめる 三省制に戻す
南宋初期 一時的に戻る 宰相と同じ 高宗の時代
乾道8年(1172) もう一度やめる 左右丞相制に変わる

宋代における「同平章事」の登場と消滅は、皇帝の支配が強まり、宰相の力が抑えられていくという中国の中世政治の大きな流れをよく反映しています。この役職の変化は単なる名前の入れ替えではなく、国の統治の仕方が根本から作り直されたことを示す重要な出来事でした。