宋太祖の死はなぜ正史であれほど曖昧に記されているのか?

宋太祖の死はなぜ正史であれほど曖昧に記されているのか?

宋太祖・趙匡胤(そう きょういん)は五代十国の乱れを終わらせ、北宋という国をつくったとても重要な初代の皇帝ですが、その死については正史『宋史』に「癸丑の夕、帝は万歳殿にて崩御し、享年五十」というたった17文字しか書かれておらず、死んだ理由やそのときの様子といったことはまったく書かれていません。そのため、後世の人々はずっとこの点に疑問を抱いてきました。

『宋史』の記録がとても短いのはなぜか

元の時代につくられた公式の歴史書『宋史・太祖本紀』は、普通なら皇帝が亡くなるときの病気の具合や経過をきちんと書くものですが、趙匡胤の場合は「崩御」とだけ書かれていて、前後のことについては何も書かれていません。

こんなに簡単な書き方になっているのは、次の二つの理由が考えられます。

まず一つは、もし趙匡胤が暗殺や急な死といった普通でない最期を迎えていたとすれば、そのときの皇帝だった弟の趙光義(宋太宗)はそれを隠したかった可能性があります。もう一つは、兄から弟へ帝位を渡すというのは中国の歴史でもめずらしいことで、特に遺言がなければ人々に「本当に正しいのか?」と疑われるおそれがあったため、わざと詳しいことを書かなかったのかもしれません。

「燭影斧声」:民間の記録に残る怪しい一夜

正史は何も書いていませんが、北宋の僧侶・文瑩(ぶんえい)が書いた『続湘山野録』にはこんな話が残っています。

開宝九年(976年)十月のある雪の夜、趙匡胤は弟の晋王・趙光義を宮中に呼び、二人だけで酒を飲んでいました。周りの者は遠くに下がらされ、外から見ていた人たちは、ろうそくのゆらめく光の中で趙光義が何度も立ち上がる姿を目撃しました。その後、趙匡胤が柱斧(玉でできた儀式用の斧)で床をたたき、「好做、好做(よくやれ、よくやれ)」と叫んだ直後に倒れてしまったそうです。

翌朝になると、趙光義はすぐに皇帝になって宋太宗となりました。この出来事は「燭影斧声」として長く語られ、「弟が兄を殺したのではないか」という噂の根拠になってきました。

「金匱之盟」は本当の話だったのか?

宋太宗は自分が皇帝になったことを正当だと示すために、「金匱之盟」という話を出しました。これは、趙匡胤と趙光義の母である杜太后(とたいごう)が亡くなる前に、「若い皇帝だと国がうまくいかないから、兄が死んだら弟が継ぐようにしよう」と言い、その約束を宰相の趙普(ちょうふ)に文書にしてもらい、金の箱の中にしまっておいたというものです。

しかし、この話にはいくつかおかしな点があります。

まず、この約束が公になったのは趙光義が皇帝になってから6年後の太平興国6年(981年)で、そのころにはすでに彼の地位はしっかりしていたのに、「今さら見つかった」というのは不自然です。次に、約束ができた当時、趙匡胤は34歳、長男の趙徳昭(とくしょう)は11歳だったので、あと数年で大人になれる年齢であり、「若すぎるからダメ」という理由が成り立ちません。さらに、この約束の唯一の証人である趙普は、ちょうどそのころ政治的に落ちぶれていて、宋太宗に取り入るためにこの話をでっち上げた可能性もあります。

多くの歴史の専門家(たとえば近代の鄧広銘など)は、「金匱之盟」は宋太宗と趙普が一緒に作った作り話だと考えています。

結論

正史がわざと詳しいことを書かなかったこと自体が、趙匡胤の死と趙光義の即位に何か問題があったことを示していると考えるのが自然です。もしすべてが普通で正当だったなら、むしろしっかりと記録して、後の人々の疑いをなくすのが普通のはずです。

「燭影斧声」が本当かどうかは今でもはっきりしていませんが、少なくとも北宋のはじめのころの権力の移り変わりは平和なものではなく、その緊張感が正史の書き方にも影響を与えたと考えられます。