
北宋(宋朝)が後蜀を倒したことは、中国で長く続いた五代十国の混乱時代に終わりを告げる大きな出来事でした。
後蜀とは何か?——「天府の国」に築かれた独立政権
後蜀(934年~965年)は、五代十国の時代に現在の四川省を中心とする地域に存在していた国で、建国したのは孟知祥であり、二代目の孟昶(もう しょう)の時代に宋によって滅ぼされました。四川盆地は周囲を山々に囲まれており、「蜀道は難し」と昔から言われるほど入りにくく守りやすい地形でしたが、同時に農業がとても盛んで、豊かな土地として「天府の国」とも呼ばれていました。
宋朝の統一方針:「先南後北、先易後難」
宋太祖・趙匡胤は中国全土を一つの国にまとめるために、「先南後北、先易後難」という方針を立てました。これは、まず南にある比較的弱い国々を順番に攻め落とし、その後で北にいる本格的な強敵と向き合うという計画です。この戦略のもとで最初に狙われたのが、経済的には豊かだったものの政治的に不安定で軍備も整っていなかった後蜀でした。
前の準備:荊湖地方の平定(963年)
宋はまず湖南と湖北にあった小さな勢力を倒すことによって、後蜀と南唐が協力し合うのを防ぎ、後蜀を完全に孤立させることに成功しました。
後蜀征伐:乾德2年(964年)の軍事行動
二つの方向から攻める
趙匡胤は鳳州(今の甘粛省南部)から南下する王全斌(おう せんひん)率いる北方面軍と、帰州(湖北省西部)から西進する劉廷譲(りゅう ていじょう)が指揮する東方面軍の合わせて約6万人の兵士を動員して、後蜀への大規模な攻撃を開始しました。
剣門関が落ちる:勝敗が決まった瞬間
後蜀側は王昭遠(おう しょうえん)を将軍にして剣門関を守らせましたが、彼は実戦経験がほとんどなく自信過剰だったため、宋軍が別の道から回り込んで奇襲をかけたことで関所を簡単に奪われてしまい、蜀の軍はほぼ壊滅状態になりました。
孟昶が降伏(965年1月)
宋軍が都の成都まで迫ると、後蜀の皇帝・孟昶はこれ以上戦っても意味がないと判断して無条件で降参し、宋の出兵からわずか66日でこの国は完全に宋の支配下に入りました。
征服後の混乱と宋朝の対応
しかし勝利の直後、宋の兵士たちが町で略奪や暴行を繰り返したため地元の人々の怒りを買い、やがて大規模な反乱が発生してしまい、宋はこれを鎮圧するのに約2年もの時間を要しました。この失敗をきっかけに趙匡胤は、それ以降の征服作戦では兵士の規律を厳しく守らせるとともに、現地の有力者をうまく味方につけることを基本方針として取り入れました。
歴史的意義:後蜀がすぐ負けた理由
孟昶は豪華な宮廷生活ばかりを楽しんで国政をなおざりにしていたため政治が腐敗しており、軍も古い藩鎮制度に頼っていたのに対して宋は中央でしっかり統制された新しいタイプの軍隊を持っていました。さらに宋が巧みに外交と軍事で包囲網を敷いたことで他国との連携もできず、かつて「守りやすい」と言われていた地形の利点も、宋軍の機動力と戦術の前ではまったく役に立たなくなっていました。
結論:宋朝統一への重要な第一歩
後蜀を短期間で倒したことで宋は「素早く集中して攻め、相手に態勢を整える暇を与えない」という新しい統一戦略が有効であることを証明し、この成功を足がかりにして南漢(971年)や南唐(975年)など他の国々も次々と併合しながら中国全土の再統一を進めていきました。








