
南宋の愛国武将・岳飛(がくひ)が書いた詞『満江紅・怒髪衝冠(どはつしょうかん)』には、「靖康の恥、いまだ雪ぐせず。臣子の恨み、いつぞ滅せん」という強い気持ちがこもった一節がありますが、この「靖康の恥」とはいったい何のことなのか、そしてなぜ岳飛がそこまでこだわったのかを。
「靖康の恥」とは何か?
「靖康の恥(せいこうのはじ)」とは、1127年(北宋の靖康2年)に金(きん)の軍隊が北宋の都・東京開封府(今の河南省開封市)を攻め落とし、徽宗(きそう)と欽宗(きんそう)という二人の皇帝をはじめ、皇族や貴族、役人など合わせておよそ3,000人を無理やり北の地へ連れて行った出来事のことで、この事件によってそれまで繁栄していた北宋はあっけなく滅び、中国は南北に分かれることになりました。
この出来事は「靖康の変」や「靖康の乱」、あるいは「丙午の恥」とも呼ばれており、中華世界にとって異民族に都を奪われ、皇帝まで捕らえられるというのは想像を絶するほどの屈辱であり、その後の時代でもずっと忘れられずに語り継がれてきました。
事件の背景とどう進んでいったか
北宋末期の政治のぐちゃぐちゃと外交の失敗
北宋の終わりごろ、徽宗は絵や書道、道教ばかりに熱中していて、国のことは蔡京(さいけい)や童貫(どうかん)といった信用できない家来たちに任せきりでした。また、昔の敵だった遼(りょう)を倒すために、当時勢いのあった金と「海上の盟」という約束を結びましたが、それが逆に災いとなって、金が次の標的として北宋を選ぶきっかけになってしまいました。
金は遼を滅ぼすとすぐに北宋に目を向け、宋の軍が弱っていることや朝廷が混乱していることを知って、1125年に大規模な南下作戦を始めました。
開封が囲まれ、皇帝たちが北へ連れ去られる
1126年の初め、金軍が開封を包囲しましたが、李綱(りこう)らの必死の守りで一度は退けられました。しかし、その後、朝廷の中では戦うよりも和平を選ぶ人たちが力をもち、自分たちで守りの態勢を壊してしまいました。そのため、同年の終わりから翌1127年初めにかけて金軍が再び攻めてくると、開封の守りは簡単に崩れ、欽宗は降伏せざるを得なくなりました。
そして1127年4月、金軍は徽宗と欽宗の親子だけでなく、皇后や妃、皇子、皇女、文武の役人、職人たちを含む3,000人以上を捕虜として北方へ強制的に連行し、宮中にあった宝物や有名な書画、貴重な本などもすべて持ち去りました。
連行された人々の生活はとても過酷で、皇族の女性たちは「浣衣院(かんいえん)」と呼ばれる場所に送られて奴隷同然の扱いを受けたといわれています。皇帝自身も、金の宮廷で羊を引いて歩くという「牽羊礼(けんようれい)」というはずかしい儀式を強いられました。
なぜこれが「恥」と言われるのか?
「靖康の恥」がただの戦争での負けではなく「恥」とされたのは、次のような理由があります。
まず、中華の考えでは皇帝は天から命を受けた特別な存在なので、異民族に捕まることは天地がひっくり返るくらいの大事件でした。次に、皇后や皇女といった皇室の女性が辱めを受けたことは、王朝全体の尊厳が踏みにじられたことを意味しました。さらに、千年近く続いた漢民族の都が外の民族に根こそぎ略奪されたという文化的なショックも大きかったのです。
岳飛と『満江紅』のつながり
南宋ができた後も、多くの志士が「靖康の恥」を晴らすために金を倒そうと北へ向かおうとしましたが、その中でも特に有名だったのが岳飛です。
『満江紅』は、まさにこのまだ果たせていない復讐と、失った国を取り戻したいという熱い忠誠心を歌った作品であり、「賀蘭山(がらんさん)を踏破せん」という言葉には、金を打ち破って二人の皇帝を救い出すという強い決意が込められています。








