
北宋をつくった宋太祖・趙匡胤(927–976年)は、開宝9年(976年)10月20日の夜明け前に50歳で急に亡くなったが、そのすぐあとに実の弟である趙光義が皇帝になって宋太宗となった。この出来事は中国の歴史で「斧声燭影(ふせいしょくえい)」と呼ばれていて、1000年以上も「兄を弟が殺したのでは?」という疑いが続いている。
1. 「斧声燭影」とはどんな話か?
この話は、北宋の終わりから南宋の初めごろに生きていた僧侶・文瑩(ぶんえい)が書いた『続湘山野録』に初めて出てくるものだ。
開宝九年十月二十日の夜、外は大雪だった。
太祖は晋王(趙光義)を宮中に呼び入れて、二人だけで酒を飲んだ。
側近たちはすべて部屋の外に出され、中には二人だけが残った。
遠くから見ると、ろうそくの灯りの中で晋王が何度も席を立って、「遠慮します」という態度を見せていた。
そのとき、柱斧(じちふ:儀式で使う短い斧)で床を叩く音が聞こえ、太祖が「好为之(よくやれ)」と叫んだという。
その夜、太祖は亡くなり、翌朝には晋王が新しい皇帝になった。
ここには「殺した」とはっきり書かれていないけれど、二人きりで交わした不自然なやりとりや、皇子(趙徳芳)ではなく弟がすぐに皇帝になったことなどが、後になって「暗殺だった」という噂を広めた。
2. 即位を正当化するために使われた「金匱之盟」
趙光義は自分が皇帝になった理由として、「金匱之盟(きんきのめい)」という約束があったと主張した。
『宋史』によると、建隆2年(961年)、母の杜太后が病気になり、宰相の趙普(ちょうふ)を呼んで趙匡胤にこう伝えたという:
「周の世宗が幼い息子に位を譲ったせいで国を失った。だからお前が死んだら、必ず弟の光義に譲ること。その後はもう一人の弟・廷美(ていび)に渡し、最後に徳昭(とくしょう)に戻すこと。」
この約束は金の箱(金匱)に入れて宮中にしまい、秘密にしておいたとされる。
だが、この「金匱之盟」には大きな疑問がある:
- 最初に話題になったのは即位から6年後(太平興国6年、981年)で、趙光義が権力をしっかり握ったあとに、趙普が突然「こんな約束があった」と言い出した。
- 内容が途中で変わった可能性がある:もとは「三人にわたって継ぐ」とされていたが、後に「光義だけが継ぐ」に変わったと考える人もいる。
- 同時代の記録にはまったく出てこない:『太祖実録』の古い版には、この約束について一言も書かれていない。
多くの現代の歴史の専門家(たとえば張蔭麟や劉輝など)は、「金匱之盟」は趙光義と趙普が一緒に考え出した作り話だと見ている。
3. 趙匡胤の死因は病気か、それとも誰かに殺されたのか?
■ 病気で亡くなったという見方
- 『宋史・太祖本紀』には「癸丑夕、帝崩于万歳殿、年五十」とわずか12字しか書かれておらず、詳しいことはわからない。
- 当時の時代では、「風疾」(脳卒中など)で突然亡くなることも珍しくなかった。
- しかし、亡くなる5日前まで狩りに行っていた記録があり、急に亡くなったのはおかしいという意見もある。
■ 殺されたという見方(毒や暴力を使った)
- 「柱斧」は武器ではなく儀式用の道具だが、頭を殴られた跡ではないかという見解もある。
- 最近の調査では、趙匡胤の肖像画に左側の頭に腫れのようなものが見られ、短い斧で打たれた傷と似ているという指摘もある。
- また、司馬光の『涑水記聞』には、宋皇后が皇子の趙徳芳を呼ぼうとしたところ、宦官の王継恩が勝手に趙光義を連れてきたと書かれており、即位の流れがとても不自然だったことを示している。
4. 歴史の専門家たちの見解と今の評価
- 南宋以降の儒学者の多くは、趙光義を「兄を殺した人」として批判した。
- 20世紀の中国の歴史学界では、「金匱之盟は偽物」「即位はクーデターだった」と考える人が主流だった。
- 最近の慎重な研究者は、直接の証拠がないため「断定はできないが、とても怪しい」と結論づけている。
結論:趙光義は本当に兄を殺したのか?
はっきりした証拠はないが、周りの状況はほとんど趙光義にとって不利だ。
- 即位までの経緯があいまいで、誰にも説明されていない
- 「金匱之盟」は後から出てきた話で、信用しづらい
- 本来なら皇子が継ぐはずなのに、弟が皇帝になった
- その後、趙徳昭、趙徳芳、趙廷美が次々と「自殺」または「急な病死」とされている
これらをすべて合わせて考えると、「趙光義が何らかの形で兄の死に関わっていた」とするのが、いちばん自然な見方だろう。








