
周の時代の最初に、昔の殷(商)の人たちを治めるために宋という国がつくられました。この国はおよそ750年も続きましたが、紀元前286年に斉・楚・魏の三つの国が手を組んで攻め入り、ついに滅ぼされました。そのあと、宋の土地は三国で分けられました。ここでは、宋がどうしてほろんだのか、そしてなぜこの三つの国が協力したのかをわかりやすく説明します。
とても大事な場所にあったから
宋の国は、今の河南省の東、山東省の南西、安徽省の北、江蘇省の西北にまたがる広い平野を支配していました。このあたりは田んぼや畑にとても適していて、物も人もたくさん集まるところでした。特に陶邑(定陶)という町は、「天下の中心」と呼ばれるほどにぎわっていて、交易や交通の要所になっていました。
この地域は、東の斉(山東半島)、南の楚(長江中流域)、西の魏(中原西部)という三つの強い国に囲まれていました。宋はそれほど大きくない国でしたが、お金も軍隊もある程度しっかりしていました。こんなに重要な場所を、どれか一つの国が全部自分のものにすれば、他の二国にとってはとても危険です。そのため、三つの国は「一緒に宋を倒して、土地を分ける」ことに決めたのです。
王が急に強くなりすぎて、周りを敵に回した
宋がほろんだ一番のきっかけは、最後の王である宋康王(戴偃)のやり方でした。
彼は王になると、国を強くするために政治や軍隊をいじり、「五千乗の勁宋」と呼ばれるくらいまで力をつけていきました。そして次々と周りの国を攻め始めました。東では斉を破って城を5つ奪い、南では楚を負かして約120キロ分の土地を広げ、西では魏を打ち破って城を2つ取ったほか、小さな滕国までも滅ぼしました。
こうして宋は一時的に「七雄」につぐくらい強い国になりましたが、そのせいで斉・楚・魏のすべてを怒らせてしまいました。
「桀宋」とよばれたわがままな王
『史記』や『戦国策』といった古い書物には、宋康王がだんだん自分勝手でひどい王になっていったと書かれています。
彼は空に向かって弓を引いたり、地面をむちで打ったりして、「神様や自然なんて怖くない」と言いました。忠告してくれる家臣を罰したり殺したりもしました。宮殿では毎日のように酒盛りをして、人々に「万歳!」と叫ばせることも日常でした。
こういう行動のせいで、昔の暴君・桀にたとえられて「桀宋」と呼ばれるようになりました。これはただの悪口ではなく、他の国が「悪い国だからやっつけてもいい」と言いやすいようにするための理由にもなりました。
三つの国が本気で攻めてきた(紀元前286年)
宋康王があまりにも強引にふるまったので、斉・楚・魏はみんな不安になりました。特に斉の湣王は、宋の存在をとても危険だと感じていました。
紀元前286年、三国は正式に同盟を結び、宋に総攻撃をしかけました。宋の軍はかなわず、首都の睢陽(または彭城)は落ちました。宋康王は魏に逃げましたが、すぐ後に温邑(うんゆう)で亡くなりました。こうして754年続いた宋の国は完全に終わりを告げました。
まとめ
宋がほろんだのは、いくつかのことが重なった結果です。
- とても大事な場所にあったこと
- 王が急に強くなりすぎて、周りの国を敵に回したこと
- 王がひどい人だと見なされたため、他国が攻める口実ができたこと
- 斉・楚・魏が「どれか一つの国だけが宋を取ることを許さない」と考えていたこと
つまり、宋は「強くなりすぎたために潰された」といえます。この出来事は、戦国時代の国同士の関係がとても冷たく、小さい国が生き延びるのがいかに難しかったかをよく表しています。





