なぜ李牧は強力な秦の軍隊を何度も打ち破ることができたのか?

なぜ李牧は強力な秦の軍隊を何度も打ち破ることができたのか?

戦国時代の終わりごろ、秦が中国を一つにまとめようとしていたとき、いちばんじゃまになったのは趙の国だった。その中でも、名高い将軍・李牧(りぼく)は、国全体の力が弱っていた趙を支えながら、秦の大軍を2回も打ち負かした。

李牧ってどんな人? ― 戦国四大名将のひとり

李牧は、戦国時代の後半に趙で活躍した武将で、「戦国四大名将」(白起・王翦・廉颇・李牧)のひとりとして知られている。長いあいだ、趙の北の国境(雁門・代郡)を守り、匈奴と何度も戦ってきた。この経験が、あとで秦と戦うときに大きな助けになった。

宜安の戦い(紀元前233年)― すきをついた奇襲と包囲で勝った戦い

秦の軍の動き

秦の将軍・桓齮(かんき)は、平陽の戦いで趙の兵10万人を倒した勢いのまま、そのまま宜安(今の河北省石家荘市藁城区あたり)まで進軍し、趙の都・邯鄲への道を開こうとした。

李牧の行動

李牧は北の国境から急いで南へ下り、宜安で秦の軍を迎え撃ったが、最初は攻めずに守りに徹して敵の動きをよく観察していた。すると、桓齮が別の部隊を連れて「肥(ひ)」を攻めるために本陣の守りを弱くしたので、李牧はそのチャンスを見逃さず、すぐに本陣に奇襲をしかけた。

  • 秦の本陣を奪って補給の道をふさいだうえに、
  • 両側から兵を送って主力を完全に囲み、ほとんど全滅させたため、
  • 桓齮は逃げるしかなくなり、秦の軍はひどい負け方をした。

この功績のおかげで、李牧は「武安君(ぶあんくん)」という特別な名前をもらった。

番吾の戦い(紀元前232年)― 「南は守って、北は攻める」作戦の成功

秦の二方面からの攻め方

秦王嬴政はまたしても大軍を動かして、南と北の両方から趙を同時に攻めた。

  • 南の部隊は邯鄲の南にある漳水ぞいに進み、
  • 北の部隊は太原から太行山を越えて、番吾(今の河北省霊寿県西南)まで迫った。

李牧の判断

李牧は「南は守って、北は攻める」という方針を決め、

  • 南の戦線では漳水や長城といった自然の壁を使って少ない兵でしっかり守り、
  • 北の戦線では自ら主力を率いて秦の北の軍と正面からぶつかった。

その結果、北の軍を破ることができ、これを聞いた南の軍は士気を失って全軍が引き返すことになった。これは、兵の数が少ないなかで、敵が分かれたのをうまく利用して、1か所に力を集中して順番に倒す、とても効果的なやり方だった。

李牧が秦の軍に勝てた3つのわけ

1. 色んな兵をうまく組み合わせられた

匈奴との戦いで鍛えた機動力の高い騎馬の兵と歩兵をうまく使い分け、素早い守りと反撃を実現できた。

2. 敵の気持ちや動きを正確に読めた

相手の行動をしっかり見て、攻めるべきタイミングをじっくり待てる忍耐力と、決断したらすぐに動ける素早さをあわせ持っていた。

3. 後ろの支えがしっかりしていた

北の国境で作った「軍市制度」(国境での商売で軍のお金をためる仕組み)のおかげで、兵のやる気と物資の補給が安定していた。これは当時のほかの国にはない、とても新しい考え方だった。

最後の悲しい結末 ― スパイの策略で命を落とした

秦は戦いで何度も負けて困ったので、今度は戦わずして勝つ方法を考えた。大量の金で趙王の側近・郭開(かくかい)を買収し、「李牧が裏切ろうとしている」とうそをつかせた。

紀元前229年、趙王遷(ちょう)はそれを信じて李牧を役職から外し、処刑してしまった。その後、秦の将軍・王翦(おうせん)はほとんど抵抗されずに趙の国を滅ぼした。

「李牧がいれば趙は残り、李牧が死ねば趙は滅ぶ」
—『史記』

まとめ

李牧はただ強いだけの将軍ではなく、作戦を立てる力、戦いを進めるうまさ、兵をまとめる力、相手の心を読む力のすべてが優れていた。もし李牧がいなければ、秦が中国を一つにするのはもっと時間がかかったかもしれない。