
中国の秦王朝が終わりに近づいたころ、宮中で強い力を持っていた趙高(ちょうこう)は、秦が滅ぶきっかけを作った人物として知られていますが、「彼はもともと趙国の王族の息子で、国を秦に奪われた恨みから、自ら去勢して宮中に潜り込み、復讐のために秦を内側から崩そうとした」という話が昔から伝わっています。
趙高の生まれた家:王族の血筋か、それとも低い身分か?
『史記』に書かれていること
司馬遷が書いた『史記』には、趙高について「趙国王家の遠い親戚」とだけ書かれていて、「公子」つまり王の息子とは明確にされていません。それどころか、母親が罪人として隠宮(いんきゅう)と呼ばれる場所に入れられ、その中で趙高が生まれたと記録されています。
「趙高の母は罰を受け、代々身分が低かった」(『史記』)
つまり、趙高は生まれたときから地位が低く、後に去勢されて宮中の役人(宦官)として働き始めたというのが、当時の記録から分かる事実です。
清の時代の趙翼が広めた「復讐説」
一方で、清の時代に活躍した有名な学者・趙翼(ちょうよく)は、自分の本『陔余叢考(がいよそうこう)』の中で、「趙高は元々趙国の王族の男の子で、趙が秦に滅ぼされたことをとても憎んでおり、自分で去勢して秦の宮中に忍び込み、内部から混乱を起こして仇を討とうとした」と主張しました。この話はとても印象的で、後の小説や芝居などに大きな影響を与えましたが、『史記』をはじめとする当時の記録には、そんな話は一切出てきません。
「復讐説」の疑わしいところ
1. 出自に関する記録の不一致
もし趙高が本当に趙国の王族の息子だったなら、戦国時代の終わりごろの貴族として、どこかに名前や行動が残っているはずですが、今のところそのような記録は見つかっていません。それに、王族の男の子が自分から去勢するというのは、当時の考え方にまったく合わない、極めてありえない行動です。
2. 行動の理由は「復讐」だけではない
趙高が実際にやった主なことは、秦始皇が亡くなったあと遺言を書き換えて沙丘の変を起こしたり、皇太子の扶蘇(ふそ)に自殺を強いて胡亥(こがい)を皇帝に押し上げたり、宰相の李斯(りし)を陥れて処刑させたり、さらには「鹿を指して馬だ」と言って周りの忠誠を試すといったものでした。これらの行動からは、国を滅ぼされた恨みよりも、自分の権力を強くしたい、生き残りたい、政治で勝ちたいという気持ちの方がずっと強く感じられます。
結論
現在の歴史研究では、趙高は趙国の王族の息子ではなく、罪人の子どもとして生まれ、頭のよさと策略を使って権力を手に入れた人物だと考えられています。「復讐説」は後世に作られた物語に近く、古い記録による裏付けはほとんどありません。ただ、この話が小説や映画などで何度も取り上げられてきたのは、現実の歴史と人々が作り出す物語が混ざり合う面白さがあるからかもしれません。





