
1127年(靖康二年)に女真族が作った金が北宋の都である汴京(開封)を攻め落としたときに、侵略者たちは徽宗(趙佶)と欽宗(趙桓)という親子の二人の皇帝だけでなく、后妃や皇子、帝姫(公主)、趙氏の一族、役人や技術者、芸人など数千から一万四千人くらいの大勢の人々を捕まえて、たくさんの宝物と一緒に北の方へ連れて行きましたが、これが世の中で「靖康の変(靖康の恥・靖康の難)」と呼ばれている出来事です。
この大きな災いのせいで北宋は滅んでしまい、なんとか逃げ出した徽宗の九番目の息子である趙構が南の方で皇帝になって南宋を始めましたが、北へ連れて行かれた皇族のほとんどの人は、二度と故郷の土地に戻ることなく人生を終えることになりました。
これから先では、大切な人物ごとに「最後の結末」をまとめて紹介していきます。
北への道のり――「死の行列」と牽羊礼による恥ずかしい儀式
移動中のとても辛い苦しみ
捕まった人たちの一行は1127年の春にいくつかのグループに分かれて金の上京会寧府(今の黒竜江省ハルビン市阿城区のあたり)へと護送されましたが、牛車での移動中には暴風雨やひどい寒さにさらされて、道中で病気や飢えで死ぬ人が次々と出ました。宮廷での生活しか知らない皇族たちは北の厳しい寒さに耐えることができず、着る物も食べる物も足りないまま旅は続いていったのです。
牽羊礼(けんようれい)という恥ずかしい儀式
上京に到着した後に、二人の皇帝や一緒についてきた人たちにさせられたのが牽羊礼と呼ばれる降伏の儀式でした。捕虜になった人たちは上着を脱がされて羊の皮を着せられ、首に縄をかけられて、家畜のように引き回されて金の太祖のお廟の前を通らされましたが、天子としての威厳を根本から否定するこの行為は、後の時代の南宋の人たちにとって「靖康の恥」を象徴する記憶となりました。
宋徽宗(趙佶)の結末――八年間の幽閉を経て五国城で亡くなる
素晴らしい芸術家でありながら国を失ってしまった君主である徽宗は、拉致された時点ですでに太上皇という身分になっていました。
- 1128年:牽羊礼を無理やりさせられ、金から蔑むような名前である**「昏徳公」**を与えられました。
- 1130年:さらに遠く離れた五国城(今の黒竜江省依蘭県)へ移されて、事実上の終わりのない拘禁状態になりました。
- 軟禁下の暮らし:土壁の家で農作業をさせられ、「井戸の中で暮らした(坐井観天)」という話もありますが、これは後世に作られた話であり、実際には半地下式の土の家などで生活していたと考えられています。また、拘禁されている期間中にも子供をもうけたという記録(『宋史』の系譜からの推定)も残っています。
- 1135年(紹興五年):五国城で亡くなりました。享年五十四歳です。『宋史』には「五国城に崩ず、年五十四」とあっさりと書かれているだけです。
遺体については、金が火葬した後に「屍油を灯明に使った」というとても怖い噂(『黙記』などの野史)も広まりましたが、本当かどうかはわかっていません。1142年に宋と金の和議が成立した後、梓宮(棺)は南宋へ返され、永佑陵に埋葬されました。
宋欽宗(趙桓)の結末――二十九年間囚われ、馬球場で悲惨な死を迎える
父よりも長く生きて、もっと深い苦しみを味わったのが欽宗です。
- 1128年:牽羊礼を受け、見下すような称号である**「重昏侯」**を与えられました。
- 1130年以降:父と一緒に五国城で軟禁生活を続けました。
- 1142年:紹興和議が結ばれましたが、南宋の高宗(趙構)は兄が帰ってくると自分の皇帝の立場が危なくなると心配して、本気で迎え入れようとしませんでした。欽宗は韋太后に「戻れたら太乙宮の主で満足するので、弟に伝えてほしい」と泣きながら頼みましたが、願いは叶いませんでした。
- その後:燕京(今の北京)の方面へ移されました。
- 1156年(正隆六年/紹興三十一年):金の海陵王である完顔亮の命令で、遼の亡くなった君主である天祚帝と一緒に馬球(ポロ)への参加を無理やりさせられました。馬に乗れないほど弱っていた欽宗は馬から落ちて、走っている馬に踏み潰されて悲惨な死に方をしました。享年五十七歳(五十六歳という説もあります)。
『大宋宣和遺事』などの野史は「遺体は回収されず、蹄で土の中に埋め込まれた」と伝えています。正史である『宋史』は「帝崩ずの問至る」とたった十字だけでこの悲劇をはっきりとは書いていません。囚われの身として二十九年間過ごし、皇帝としての治世は二十七歳で終わっていました。
皇室の女性たちの結末――后妃・帝姫・側室の厳しい運命
靖康の変で一番ひどい境遇に置かれたのは、皇族の女性たちでした。
朱皇后――辱めに耐えきれず入水して自殺
欽宗の正妻である朱氏(朱璉) は、牽羊礼の屈辱に耐えられず、1128年に自ら命を絶ちました(水に入って死ぬか、首を吊って死ぬかのどちらかです)。金側さえその貞節を褒めて「靖康郡貞節夫人」という名前を追贈したという話が残っています。囚われた皇后が自分で死を選んだ代表的な例です。
浣衣院(かんいしいん)――「洗衣院」の本当の姿
たくさんの側室や帝姫、宮女たちは、金の浣衣院(別の名前:洗衣院) へ送られました。名前は洗濯を担当する役所ですが、本当のところは捕らわれた女性を収容して働かせ、金国の偉い人に仕えさせるための施設であり、多くの女性がひどい扱いを受けました。『呻吟語』などの宋人の野史に詳しいことが書かれていますが、内容がそういうものなので、正史はあまり多くを語っていません。
帝姫(公主)たちの行方
徽宗の娘である帝姫二十数名も連れて行かれ、ほとんどの人が道中で病死したり自殺したり、あるいは金の貴族や武将に戦利品として分け与えられました。金への賠償の代わりに女性が「値段をつけられて」差し出されたという記録(『開封府状』など)も残っています。
韋太后(韋氏)――唯一「生きて帰れた」母后
南宋の高宗(趙構)の実の母親である韋氏は、浣衣院に送られた後、金の重臣である完顔宗賢(蓋天大王)の側室にされていた時期があったと言われています。
1142年(紹興十二年) に、紹興和議の条件としてやっと南宋へ帰ることができました。徽宗の棺と一緒に臨安に到着し、皇太后として慈寧宮に入りました。1159年に亡くなりました。連れて行かれた皇族の中で、政治的に「帰還」を実現できたほぼ唯一の人です。ただし帰った後、北での記憶は南宋の宮廷の中で徹底的に隠されました。
その他の皇族と「置いていかれた人」の行方
| 人物・集団 | 最後の結末 |
|---|---|
| 徽宗(趙佶) | 五国城で八年間軟禁され、1135年に亡くなる(54歳)。棺は後に宋に戻る |
| 欽宗(趙桓) | 二十九年間囚われ、1156年に馬球で馬から落ちて悲惨な死に方をする(57歳) |
| 朱皇后 | 1128年、牽羊礼の後に自殺 |
| 韋太后(韋氏) | 1142年、宋と金の和議により宋に戻る。皇太后として亡くなる |
| 帝姫・側室のほとんど | 浣衣院に送られる、金の偉い人に分け与えられる、病死・自殺 |
| 趙構(康王) | 連行を免れて南へ行き、南宋を建国(高宗) |
| 張邦昌 | 金に傀儡政権「楚」の皇帝にされるが、後に処刑される |
それから、欽宗が拘禁されている間も南宋から使者が来ることはありましたが、高宗は兄が帰ってくることを望まず、「靖康の恥、猶ほ未だ雪がず」(岳飛『満江紅』) という怒りとは反対に、政治的な利害が優先されました。この仕組みこそが、欽宗の悲劇を二十九年も長引かせた一番大きな原因です。
よくある質問(FAQ)
Q1. 靖康の変で連れて行かれた皇族は何人ですか?
A. 二人の皇帝と趙氏の一族・後宮・役人・技術者などを合わせて三千人〜一万四千人くらいと言われていて、史料によって数字に幅があります。
Q2. 徽宗と欽宗はどのように亡くなりましたか?
A. 徽宗は1135年に五国城で病気で亡くなりました(54歳)。欽宗は1156年に金の完顔亮から馬球を無理やりさせられ、馬から落ちて悲惨な死に方をしました(57歳)と言われています。
Q3. 五国城は今のどこですか?
A. 中国黒竜江省依蘭県の松花江の流域です。当時は金の辺境で、一年の半分くらいは雪に閉ざされるとても寒い場所でした。
Q4. 連れて行かれた女性は全員帰れなかったのですか?
A. ほぼ全員が戻れませんでした。唯一の例外が韋太后で、1142年の宋と金の和議によって南宋へ帰ることができました。
Q5. なぜ南宋は二人の皇帝を取り戻さなかったのですか?
A. 高宗(趙構)は、兄の欽宗が帰ってくれば自分の皇帝としての立場が揺らいでしまうと恐れて、北への攻撃よりも和議を優先しました。この政治的な判断が、捕虜になった人たちの運命を決定的に変えてしまいました。
まとめ――「靖康の変」が中国の歴史に残した傷跡
靖康の変で北へ連れて行かれた宋朝の皇族の結末をまとめると、以下の三つの点に集約されます。
- 二人の皇帝はどちらも知らない土地で命を落とした:徽宗は八年の軟禁後に病気で亡くなり、欽宗は二十九年間囚われた末に悲惨な死に方をした。
- 皇室の女性のほとんどは帰ることができなかった:皇后の自殺、浣衣院への収容、偉い人への分配という厳しい運命が待っていた。
- 帰るための鍵は「武力」ではなく「外交取引」だった:韋太后が宋に戻れたのは、紹興和議という政治的な交換条件の結果に過ぎない。
この出来事は単なる王朝の終わりにとどまらず、岳飛の『満江紅』に「靖康の恥、猶ほ未だ雪がず」と詠まれたように。





