
一一二七年に金の軍隊が攻めてきて首都の開封が落とされて二人の皇帝が捕まった靖康の変という出来事によって北宋という国は終わりを迎えてしまいましたが、歴史に興味がある人たちの間では遼との長い平和な関係を壊して新しく力をつけてきた金と手を組んだ聯金滅遼というやり方こそが北宋を滅ぼした一番の理由なのかという疑問がよく出されています。
ここで先に答えを言っておくと、海上の盟という約束に基づいて遼を攻めたことは靖康の変を起こしたとても大きなきっかけにはなりましたがそれだけが唯一の理由というわけではなくて、この外交上の失敗が取り返しのつかない結果を生んでしまった背景には北宋という国の仕組みそのものにあった根深い問題が関係していましたので。
1. 海上の盟という危険な約束の中身とその問題点
秘密の約束が結ばれた経緯とその内容
一二〇年に北宋は海を渡って金と秘密の話し合いをして海上の盟という約束を結びましたが、その主な内容は金が遼の中京という場所を攻め取って宋は遼の南京つまり燕京を奪い取るという作戦の分担と、遼が滅んだ後には燕雲十六州という地域を宋のものにして宋が今まで遼に払っていたお金をそのまま金に払うという領土とお金の取り決めでした。
なぜこれが最悪の選択だと言われているのか
この同盟の約束には三つの大きな欠点があって、一つ目は衰えていたとはいえ宋と金の間にあってクッションのような役割を果たしていた遼という国が消えたことでより強い軍事力を持つ金と直接隣り合わせになってしまったこと、二つ目は約束通りに宋の軍隊が燕京を攻めましたが何度も負けて結局は金に占領されてしまったために宋は戦いにおいて当てにならないという印象を金に与えてしまったこと、三つ目は国境の線や土地の受け渡しの条件がはっきりしていなかったので後に金が攻め込むための言い訳として張覚事件のような出来事を利用する隙を作ってしまったことです。
2. 外交の失敗だけで国が滅ぶのかという疑問
遼が残っていても危機は避けられなかったかもしれない理由
聯金滅遼が靖康の変の直接的な原因だという考え方は有力ですが、もし北宋に十分な国力があれば外交の間違いを直すことができたはずなのでそれだけでは説明できない部分があり、仮に宋が中立の立場を保って遼が残っていたとしても、重文軽武という方針のせいで禁軍がお飾りのようになって実戦での強さがすごく落ちていたことや、花石綱などの贅沢やお役人の数の増加で国の経済が破産しそうになっていたことや、方臘の乱や宋江の乱のような反乱が起きて統治の基盤自体が揺らいでいたことといった課題が解決されていないままなら遅かれ早かれ存亡の危機は訪れていたでしょう。
つまり海上の盟というのはすでに病気になっていた体に強い薬を無理やり飲ませたようなものであって、健康な体が毒を盛られた場合とは分けて考えなければなりません。
3. 靖康の変を引き起こした三つの本当の理由
検索している人が知りたいのは単純にイエスかノーかということだけでなく、その背後にある複数の要因がどう絡み合っているかという仕組みですので、ここでは三つの本質的な理由を説明します。
① 情報収集と危機への備えが足りなかったこと
北宋の朝廷は金の台頭を遼を倒すチャンスだとしか考えずに金の軍事力や政治の仕組みについての正しい情報を集めることをしなくて、馬植(趙良嗣)のような一か八かの人物の意見を批判もせずに採用して客観的にリスクを見積もることを怠ってしまいました。
② 派閥争いのせいで大事な決定ができなくなったこと
新しい法を作る派閥と古い法を守る派閥の争いが国の最後まで続いて外交や軍事の方針に一貫性がなくなってしまい、戦争をしたい派閥と慎重な派閥が政権交代のたびに振り回されて金への対応も強硬な態度と穏やかな態度を行ったり来たりしてしまったために、金からは宋は話をしても信じられない相手だと判断されて全面戦争を始める口実を与えてしまうことになりました。
③ 皇帝としての資質がなく責任を投げ出したこと
徽宗は芸術家としては素晴らしい才能を持っていましたが政治家としては無責任で、状況が悪くなるとすぐに欽宗に位を譲って逃げ出そうとして中央の指揮系統をめちゃくちゃにしてしまい、トップリーダーがいない状態になったことで開封を守る戦いにおいて組織だった抵抗をすることが不可能になってしまいました。
4. まとめ:直接的なきっかけではあるが根本的な理由は体制の腐敗である
最初に挙げた問いに対する答えを表にまとめて整理しますが、聯金滅遼は緩衝国の喪失と敵の誘引という取り返しのつかない失策だったので直接的な誘因としてはYESと言えますが、軍事や内政や指導力の欠如がなければ回避できた可能性があるのでそれだけが原因かというとNOであり、最大の教訓は同盟というのは自国の軍事力を補うためのものであって代わりになるものではないので実力のない外交は自分を滅ぼすということを覚えておくべきです。
北宋の悲劇はたった一つの外交ミスだけで起きたものではなくて、実力が伴わない燕雲回復という野望を海上の盟という間違った手段で実現しようとして、腐敗したシステムがその代償を払い切れなかったことに本当の原因があります。
よく聞かれる質問
Q: 澶淵の盟を続けていれば北宋は生き残れましたか? A: 可能性は高いですが絶対に大丈夫とは言えなくて、遼の衰退は構造的なものだったので最終的には金やモンゴルのような新しい脅威への対処が必要でしたが、少なくとも一一二七年のような突然の崩壊は避けることができたでしょう。
Q: 童貫と蔡京の責任はどれくらいですか? A: 二人の責任はとても大きくて、彼らは徽宗の願いを利用して自分の権力を保ち反対の意見を封じ込めましたが、それでも彼らを起用し続けた徽宗自身の責任が一番重いと言うことができます。








