なぜ岳飛の孫・岳珂が編纂した『金佗稡編』には『満江紅』が収録されていないのか?

なぜ岳飛の孫・岳珂が編纂した『金佗稡編』には『満江紅』が収録されていないのか?

「怒髪衝冠」で始まるあの詞は岳飛の一番有名な作品としてずっと読まれてきたけれど、おじいさんの遺文をひとまとめにした『鄂国金佗稡編』にはこの歌が全く入っていないので、これは単なる書き漏れなのか、それともずっとあとに作られたものなのかという疑問が出てくるが、ここでは一次資料だけを使って確かめていくことにする。

お孫さんが三十年もかけて作った本

編集した岳珂(1183–1243)という人は、ぬれぎぬを着せられて殺されたおじいさんの名誉を取り戻すことを一生の仕事にしていて、孝宗の時代に罪が晴らされて寧宗が鄂王という称号を贈ったあと、彼は宮廷の記録や高宗が自分で書いた手紙、偉い人たちの家に残っていた手紙や文章、あちこちにある石碑の文字や題跋、それに昔からの家来やお年寄りから聞いた話といったいろんな材料を集めた。

こうして集めたものは嘉定十一年(1218)に正編二十八巻、端平元年(1234)に続編三十巻として完成し、「金佗」という名前は嘉興にあった住居の地名から来ていて、皇帝の手紙や年譜、詩文集、冤罪を晴らす資料などが全部入っているので、今残っている岳飛に関する資料の中では一番まとまった大切な一級史料だとされている。

ここで特に覚えておきたいのは、ほんの少しだけの題跋や石碑の写しまで続編にしっかり入れているということで、おじいさんを褒め称えるために作った本なのだから、敵と戦う気持ちを詠んだ代表的な長い歌を見落とす理由なんて全然ないはずなのである。

宋代の本にまったく出てこないこと

一番大事なポイントは、この詞が宋や元の時代の本に一つも出てこないということで、下の表を見るとわかるように、『鄂国金佗稡編』の正編も続編も、宋の人たちが書いたメモや詞の選集も、元代に作られた『宋史』の岳飛伝にも載っておらず、歴史上初めて姿を現したのは明の弘治十五年(1502)に趙寛という人が杭州の岳廟に建てた石碑で、本に載ったのもそれよりあとの嘉靖年間に出た徐階編の『岳武穆遺文』が最初で、しかもその典拠は同じ石碑の文章なので、だいたい三百五十年の間、誰かが引用したり、和歌のように返事を作ったり、あとがきを書いたりした形跡がゼロなのである。

資料の名前 できた時期 載っているか
『鄂国金佗稡編』正編 南宋・嘉定11年(1218) なし
同じく続編 南宋・端平元年(1234) なし
宋の人のメモや詞の選集 南宋〜元代 なし
『宋史』岳飛伝 元・至正5年(1345) なし
趙寛が書いた岳墳の詞碑 明・弘治15年(1502) あり(一番古い石碑)
徐階編『岳武穆遺文』 明・嘉靖15年(1536)頃 あり(本では初収録)

「集め忘れた」説を否定する四つのわけ

余嘉錫という学者が『四庫提要弁証』という本で挙げたポイントをまとめると、四つの話に分けられるのだが、まず一つ目は、宮中の記録から一般の人が書いた墨跡まで三十年も探し回った人が代表作だけを忘れるなんてとても考えられないということで、二つ目は、この本を作った目的が冤罪を晴らしておじいさんの武功を褒めることだったのだから、もし作品が本当にあったなら誰よりも入れたかったはずだということ、三つ目は、岳飛が亡くなってからたった四十数年後に生まれていて、古い家来たちに話を聞くこともできたのだから、世の中に広まっていれば手に入れるのは簡単だったはずだということ、そして四つ目は、別の詞である『小重山』は陳郁の『蔵一話腴』という本に引かれていて、宋の人たちが岳飛の詞を記録しなかったわけではないのに、唯独この一首だけが完全に空っぽになっているということである。

以上のことから言えるのは、「世の中に広まらなかった」のではなくて、当時の南宋にはそもそもこの作品自体が存在していなかった可能性がとても高いということなのである。

文章の中にある地理的なおかしい点

一九六二年に夏承燾という研究者が言葉遣いを調べて新しい疑いを指摘したのだが、それは「駕長車、踏破賀蘭山欠」という句に出てくる賀蘭山脈が寧夏地方、つまり当時の西夏の領土にあって、岳飛が倒そうとしていた金国とは方角が全然違うということで、岳飛自身が目指していたのは「直抵黄龍府」、今の吉林省農安あたりだったので、地理的に合わないことになる。

一方で、弘治十一年(1498)には王越という武将が同じ場所で韃靼を打ち破っていて、詞の中にある「胡虜」や「匈奴」といった言葉は明代の北辺の状況を表していると読むことができるので、つまり明代の国境防衛の問題を背景にして、英雄の名前を借りて詠まれたのではないかという推測が成り立つのである。

本物だと考える人たちの言い分

学会の中には違う意見もあって、鄧広銘たちは一九六〇年代に次のような主張をしたのだが、それは宋や元の文献がたくさん失われているので、「書物に載っていない=存在しない」とすぐに決めつけるのは危ないということ、それから「賀蘭山」は辺境の一般的な呼び名としても使えて、辛棄疾が「長安」で汴京を暗示した例と同じだということ、さらに宋代の家集は基本的に詞を載せない決まりだったので、載っていないだけでは決定的な証拠にならないということである。

これらの指摘にはそれなりの道理があるものの、「なぜ三百五十年間もまったく痕跡が残らなかったのか」という根本的な疑問に対して、本物派の人たちも納得できるような答えを出せていないのが今の状況なのである。

今の学会での考え方

現代の宋代文学の研究では、だいたい以下のような扱い方が主流になっていて、文献学的に見れば明代以降に出てきたテキストであって、岳飛本人が書いたと断定できる積極的な材料は見当たらないけれども、かといって偽物だと確定する動かぬ証拠もないので、「岳飛の作と伝えられている(托名の可能性がある)」という注釈をつけて載せるケースが増えており、文学としての価値や愛国のシンボルとしての意味は、作者が本物かどうかとは別の話として評価されているのである。

まとめ:何も語らない史料が教えてくれること

最初の問いに答えるとすれば、『金佗稡編』にこの詞が載っていない一番自然な理由は、この本が作られた南宋の時代に、これが「岳飛の作品」として知られていなかったからということで、集めようとする意欲も能力も動機もどれを考えてみても、すでにある名作をわざと外したとはどうしても思えないのである。

史料が何も語らないということは、時にははっきりと物を言うよりも多くのことを伝えてくれるもので、本当か嘘かの最終的な決着はまだついていないけれど、「なぜ収録されなかったのか」という理由こそが、この作品の生まれをめぐる一番大きな手がかりなのである。

よくある質問

Q1. 『金佗稡編』ってどんな本?

岳飛のお孫さんの岳珂が三十年以上かけておじいさんの遺文を集めた史料のまとめで、正編二十八巻(1218年)と続編三十巻(1234年)からできていて、皇帝の手紙や年譜、詩文集、冤罪を晴らす資料が入っており、岳飛を研究するための基本となる文献である。

Q2. この詞が一番古く出てくるのはどこ?

明の弘治十五年(1502)に趙寛が杭州の岳廟に建てた詞碑が一番古いとされていて、本に載ったのは嘉靖年間の徐階編『岳武穆遺文』が最初で、どちらも宋や元の文献より何世紀もあとのことである。

Q3. 本物か偽物か?

文献学的には疑いが強くて、岳珂の集成にも入っていないし宋や元の引用例もない一方で、明代の賀蘭山の戦いと符合するような表現があるので、あとになって名前を借りて作られたという説が有力視されているけど、完全な定説はまだない。

Q4. どうして明代になって急に現れたの?

一番有力な仮説は、北の韃靼の脅威が強まる中で、愛国の武将のイメージを借りて作られたのではないかということで、夏承燾は弘治時代の王越による賀蘭山の勝利とのつながりを指摘している。