
後漢時代に活躍した蔡邕(さいよう、133年-192年)は、文人としてだけでなく、書道や音楽、学問の分野でも知られており、中国の書道の歴史に大きな足跡を残しました。彼が考え出した「飛白書(ひはくしょ)」という書き方は、後に王羲之や唐太宗といった有名な書家たちにも強い影響を与えました。
飛白書ってどんな書き方?
飛白書とは、文字を書くときにわざと線の中に白い部分を残すスタイルのことで、墨が切れてできる「枯筆(こひつ)」と呼ばれる効果を使って、文字に動きやリズム感を加えるのがポイントです。北宋の文人である黄伯思(こうはくし)は、「その線が細くて白く、まるで髪の毛のように見えることから『白』、筆の運びが空を飛ぶように感じられることから『飛』と名付けられた」と記しています。
どうして思いついた?鴻都門での出来事
飛白書ができた話は、唐代の李綽(り しゃく)が書いた『尚書故実』に載っています:
「蔡邕が鴻都門(こうともん)で、職人がほうきに白い漆喰をつけて壁に字を書いているのを見て、その筆の動かし方からヒントを得て飛白書を生み出した。」
つまり、宮殿の工事現場で、職人が大きなほうきを使って白い塗料で壁に字を描いている様子を見た蔡邕が、その線の途中にできる切れ目や乾いてできる白い部分の美しさに気づき、それを書道に取り入れようとしたのです。
どんな道具を使い、どう書くのか?
飛白書を書くときは、普通の毛筆ではなく、平たくて竹で作った特別な筆(「扁筆」)を使うことが多かったとされています。また、墨の濃さや筆を押す強さ、動かす速さをうまく調節することで、意図的に白い部分を出すことができます。これは見た目を飾るためだけではなく、文字に生き生きとした雰囲気や時間の流れを感じさせるための工夫でした。
後の時代にどう広がった?評価の変化
魏晋南北朝の頃には、王羲之(おうぎし)とその息子の王献之(おうけんし)が飛白書を学んで新しい表現を広げました。唐代になると、皇帝の李世民(唐太宗)がこの書き方をとても気に入り、自分で作品も残しました。武則天や宋仁宗も好きだったため、宮廷の中で人気のある書風になりました。しかし宋代以降は、文人の好みが変わってきてあまり使われなくなりましたが、その筆の使い方は行書や草書の中に取り込まれ、別の形で続いていきました。
まとめ
蔡邕が生み出した飛白書は、日常の作業の様子をよく見て、そこから新しいアイデアを思いつく「観察力」と「発想力」から生まれたものです。これはただきれいに見せるためのものではなく、書道に動きや空間、時間の感覚を加えた画期的な試みであり、中国の書道史においてとても大切な一歩となりました。








