
班超(はん ちょう)は東漢の時代に活躍した有名な武将で、外交もよくこなしました。「筆を捨てて剣を取る(投筆従戎)」という言葉の元になった人でもあります。彼は31年間ずっと西域(今の中国・新疆ウイグル自治区や中央アジアのあたり)にいて、50以上の国を漢の支配下に入れ、シルクロードを安全に保つのに大きな役割を果たしました。ところが、そんな英雄も年をとってくると、「一度だけでいいから生きているうちに玉門関をくぐりたい」と強く思い、朝廷に帰ってもいいかと頼む手紙を出しました。
「生きているうちに玉門関を通りたい」――班超の強い思い
西暦100年(永元12年)、70歳近くになっていた班超は、漢和帝(かん わてい)にこんな内容の手紙を送りました。
「酒泉郡まで戻るのは望みません。ただ、命があるうちに玉門関をくぐることだけをお願いします。息子の班勇(はん ゆう)を安息(パルティア)の使節団と一緒に中原へ送ります。どうか私がまだこの世にいるうちに、子どもに故郷の地を見せさせてください。」
この言葉からは、長く外国で暮らしてきたことによる深い故郷への思いと、年老いてきた体の限界がよく伝わってきます。当時、玉門関は中原と西域を分ける大事な関所でした。班超は偉い将軍としてではなく、ただの年寄りとして「家に帰りたい」と訴えたのです。
朝廷が返事をせず、妹の班昭が行動する
しかし、班超の願いに対して朝廷は何も返事をしませんでした。西域を安定させるには、まだ班超が必要だと考えられていたためです。
このままではまずいと思ったのは、班超の妹である班昭(はん しょう)でした。彼女は宮中に仕える「曹大家(そう たいか)」というあだ名で知られる、とても有名な女性の学者であり、歴史もよく知っていました。班昭は自分で皇帝に直接頼み、次のような趣旨の手紙を出しました。
「外の民族は、元気な人を恐れ、弱っている人を軽く見ます。兄の班超はもう衰えていて、いつ亡くなってもおかしくありません。もし早く代わりの人を送らなければ、西域の国々が反乱を起こして、今までの努力が全部無駄になるかもしれません。忠実な人の気持ちを冷やし、国の利益を損ねることになります。」
班昭の手紙は感情だけでなく、国のためと儒教の教えをうまく組み合わせた、しっかりと考えられたものでした。この働きかけのおかげで、ようやく漢和帝は班超の帰還を許可することにしました。
帰国と最期
西暦102年(永元14年)8月、71歳の班超はついに都の洛陽にたどり着きました。しかし、長年の厳しい暮らしと年齢のせいで、帰ってすぐ病気になり、亡くなりました。こうして、一代の英雄は故郷の地で人生を終えることができました。





