班超が「定遠侯」に封ぜられた裏には、どのような重要な戦功があったのか?

班超が「定遠侯」に封ぜられた裏には、どのような重要な戦功があったのか?

東漢の時代、班超(はん・ちょう)はたった36人の仲間と一緒に西域へ向かい、31年もの長い間、話し合いと戦いの両方で50以上の国を従わせました。そして西暦95年(永元7年)、そのすばらしい働きが評価されて、「定遠侯(ていえんこう)」という位をもらうことができました。

1. 鄯善(ぜんぜん)夜襲:「虎の穴に入らなければ、子虎は手に入らない」

73年(永平16年)、班超ははじめての使者として、今の新疆ウイグル自治区ロプノール周辺にある鄯善国を訪ねました。最初は親切に迎えられましたが、匈奴(きょうど)の使いが到着すると、国王の態度が急に冷たくなりました。そこで班超は「虎の穴に入らなければ、子虎は手に入らない」という気持ちで、わずか36人だけで匈奴の使者たちが泊まっている場所を夜中に襲いました。敵を全滅させ、鄯善王をびっくりさせることに成功し、これによって鄯善は漢に服従することになり、班超の西域での第一歩がうまくいきました。

2. 于闐(うてん)制圧:祈祷師を殺して力を示す

次に班超は、今のホータンにある于闐国に向かいました。そのとき于闐の王は匈奴の影響を受けていて、国の祈祷師(ふげき)も「漢に従うと神様が怒る」と言っていました。班超はその祈祷師を呼び出してすぐに殺し、その首を于闐王に見せて、「漢に逆らえば、お前もこうなるぞ」と言いました。于闐王はとても怖くなり、自分で匈奴の使者を殺して、班超のもとへ来て服従を誓いました。

3. 疎勒(そりゃく)奪還:にせの王を追い出し、漢に味方する政権を作る

今のカシュガルにあたる疏勒国は、当時、匈奴についたにせの王・兜題(とうだい)が治めていました。班超はうまく策略を使って兜題を捕まえ、前の王の甥である忠(ちゅう)を新しい王に立てました。こうして疏勒は漢に味方する国となり、漢にとって西域でとても大事な拠点ができました。その後、疏勒は班超が長く暮らす場所となり、西域全体をまとめる中心地になっていきました。

4. 莎車(さしゃ)征伐:見せかけの作戦で大軍をやぶる

87年(章和元年)、莎車国が反乱を起こし、周りの国々をそそのかしました。班超には兵があまりおらず、助けも来ませんでしたが、彼は「見せかけの作戦」を使いました。味方が引き下がるふりをして敵を油断させ、夜中に突然攻撃しました。莎車の軍は混乱してしまい、大敗を喫しました。この戦いで、班超が戦略に優れていることが広く知られるようになりました。

5. 焉耆(えんき)・尉犁(いり)平定:西域を一つにする最後の戦い

94年(永元6年)、班超は西域で最後まで漢に逆らっていた焉耆・危須(きしょ)・尉犁の三国連合と戦いました。彼は八つの国から集めたおよそ7万人の軍を率いて、まず尉犁を攻めて脅しました。その後、焉耆王が送ってきた使いをわざと罰せず安心させ、その隙をついて三つの国を一気に攻めて倒しました。これで西域全体が再び漢の支配下に入りました。

この直後、漢和帝は「西域都護の班超は、22年間西域に出て、服従しない国は一つもなかった」とたたえ、翌年の95年(永元7年)に「定遠侯」という位を与えました。

まとめ

班超の成功は、ただ戦っただけではありませんでした。「異民族同士を戦わせて自分を強くする」という外交のやり方と、少ない兵で大きな成果を出す知恵がありました。彼が築いた秩序のおかげで、シルクロードは安全になり、中国と中央アジアの交流が大きく進みました。