
蔡邕(さいよう、133年-192年)は東漢の終わりごろに活躍したとても博識な人物で、書道や音楽でも高い評価を受けており、特に『熹平石経』をまとめたり、「焦尾琴」という有名な琴のエピソードで知られていますが、彼は正直で物事をはっきり言う性格だったため、当時国を動かしていた宦官たちと激しくぶつかり合い、最終的には作り話の罪を着せられて投獄されるというつらい目に遭いました。
事件のはじまり:光和元年(178年)、次々と不吉な出来事が起こる
東漢の霊帝が治めていた時代の光和元年(西暦178年)には、悪い兆しとされる現象が立て続けに起きました。
宮中の玉堂後殿に青い虹が現れたり、雌鶏が雄のような姿になったり(「雌鶏化雄」)、黒い雲が宮中に流れ込んだりするだけでなく、地震や大洪水といった自然災害も頻繁に発生しました。
こうした異常事態を受けて、霊帝は家臣たちにその原因を尋ねました。議郎として仕えていた蔡邕は、こっそりと上奏文を提出し、その中で次のように指摘しています。
「こうした災いは、宦官が政治をめちゃくちゃにしていて、後宮の女性が政事に口出ししているからです」
さらに、彼は具体的な名前を挙げて批判しました。
- 太尉の張顥(ちょうこう)
- 光禄勲の傅璋(ふしょう)
- 長水校尉の趙玹(ちょうげん)
- 屯騎校尉の蓋昇(がいしょう)
これらの人々はすべて、宦官と結びついて汚いことをしていた役人たちでした。蔡邕は彼らをやめさせ、誠実でまっすぐな人材を代わりに登用するよう強く主張しました。
宦官の反撃:曹節が仕掛けた罠
最初、霊帝は蔡邕の忠告を真剣に受け止めましたが、皇帝が席を外したすきに、**中常侍の曹節(そうせつ)**がこの上奏文をひそかに見てしまいました。
曹節はすぐに他の宦官たちに内容を伝え、「蔡邕が我々を陥れようとしている」と怒り狂い、まったく関係ない罪をでっち上げて、彼を「大逆不道」つまり国への反逆者だと訴えました。
そのため蔡邕は逮捕され、牢屋に閉じ込められました。死刑を求める声もありましたが、別の宦官である**呂強(りょきょう)**が彼の無実を信じて必死に助けを求めたおかげで、命は助かりました。しかし代わりに、朔方(今の内モンゴルあたり)へ流されることになりました。
その後の暮らし:12年間の隠れ暮らしが続く
一度は恩赦で故郷に戻ることができましたが、またしても宦官たちの悪口(中傷)に遭い、蔡邕は江南地方に逃げて、12年もの間、人前に出ずにひっそりと暮らさざるを得なくなりました。この時期には刺客が送られたこともありますが、その名声を聞いた刺客が手を下さなかったという話も残っています。
最後に
蔡邕が牢に入れられたのは、ただの個人的な不幸ではありません。これは、東漢の終わりごろに清い志を持った知識人たちと、実権を握っていた宦官勢力との激しい対立をよく表す出来事です。国を思って忠告したことが、権力者にとっては裏切りと見なされ、悲劇につながりました。この事件は、後に「党錮の禁」と呼ばれる知識人弾圧の前触れともいえる重要な出来事でした。





