飛白書は書道史においてどのような栄枯盛衰の過程をたどったのでしょうか?

飛白書は書道史においてどのような栄枯盛衰の過程をたどったのでしょうか?

飛白書(ひはくしょ)は中国の書道の中でとても変わった書き方で、筆の線の中に「白」が飛び散るように見える乾いた筆使い(枯筆)を使うことで、字に動きやリズムを加えることができます。この技法は東漢の終わりごろに生まれて、ある時期には皇帝や文人の間でとても人気がありましたが、時代が進むにつれてだんだん使われなくなり、今ではこれを使える人はほとんどいません。

飛白書ってどんな書き方?

飛白書は、筆に墨をたっぷりつけずに少し乾いた状態で紙の上を動かして、線の中に白いすじ(飛白)をわざと残す書き方です。北宋の黄伯思(こうはくし)は『東観余論』という本で、「細さが髪の毛みたいになっている部分を『白』と呼び、勢いよく動いているように見えるところを『飛』という」と説明しています。

これはただ見た目をきれいにするためのものではなく、字に力強さやスピード感、空間のバランスを加える高度な表現として大切にされてきました。

はじまり:蔡邕(さいよう)と偶然の出来事

飛白書を最初に考え出したのは、東漢の終わりごろに生きた学者で書家だった蔡邕(132年–192年)だとされています。唐代の書道評論家・張懐瓘(ちょうかいかん)は『書断』という本で、「飛白書は後漢の左中郎将・蔡邕が作ったものだ」と記録しています。

伝わっている話によると、蔡邕が宮殿「鴻都門」で待っていたとき、職人がほうきに白い石灰をつけて壁に字を書いているのを見て、アイデアを得たといいます。その乾いた線と空白の美しさに感動し、それを書道に取り入れたのが飛白書の始まりです。

人気の時代:魏晋南北朝から唐・宋まで

魏晋南北朝のころには、王羲之(おうぎし)とその息子の王献之(おうけんし)も飛白書を得意としていて、文人の間で広く親しまれるようになりました。この時期、飛白は隷書や篆書と混ざりながら、自分だけのスタイルを築いていきました。

唐の時代になると、特に太宗(李世民)が飛白書を好み、自分でよく書いていました。貞観18年(644年)には玄武門で大臣たちの前で飛白書を見せ、宮中の間で大流行しました。このころ、飛白書は宮殿の額や石碑の文字にも使われるようになり、権力と美しさの象徴になりました。

宋の時代には、太宗や仁宗といった皇帝も飛白書に関心を持ちました。特に仁宗と皇后の曹氏は、ドラマ『清平楽』でも描かれているように、飛白書を通じて交流していたことで知られています。このころには詩や文人画と結びつき、もっと芸術的な書き方に変わっていきました。

使われなくなる

南宋のあと、飛白書は急に人気がなくなっていきます。元・明・清の時代を通しても、この書き方を続ける書家はほんのわずかでした。その理由としては、楷書や行書が主流になって飾りの多い飛白書があまり使われなくなったことや、読みにくくて公文書や印刷に向かないといった実用性の低さ、さらに上手に書くには高い技術と経験が必要で学ぶ人が少なかったことが挙げられます。

近代になっても、飛白書を本格的に学ぶ書家はとても少なく、今は主に書道の歴史の中で紹介されるだけになっています。

まとめ

飛白書はただの字の形ではなく、「余白の美しさ」「動と静のバランス」「筆と心のつながり」を表す中国書道の大切な技法です。その人気の変化は、その時代の好みや政治、文化の流れをよく映しています。