東漢において外戚と宦官が交代で専権を握った根本的な原因は何ですか?

東漢において外戚と宦官が交代で専権を握った根本的な原因は何ですか?

東漢(25年~220年)の中ごろから後期にかけて、中国の王朝の中でめずらしい政治のあり方が続きました。それは、お母さんの実家の一族(外戚)と宮中に仕える去勢された男たち(宦官)が交互に国を動かし、皇帝自身の力がほとんどなくなってしまうという状態です。

いちばんの原因:小さな子どもが皇帝になることと、そのあとの権力の空白

東漢の中ごろから後期にかけての多くの皇帝は、まだ子どもなのに即位しました。たとえば、和帝は9歳、順帝は10歳、桓帝は14歳、霊帝は12歳で皇帝になっています。

子どもが皇帝だと、自分で国を治めることはできません。そのため、皇后だった母親が代わりに政治を取り仕切る(臨朝称制)ことになります。

お母さんの実家が力をつけるしくみ

皇太后は自分の立場を守るために、自分の父や兄弟といった実家の親族を重用します。こうした人たちを「外戚」と呼びます。

彼らは大将軍や三公といった重要な役職につき、軍や政治の実権をにぎるようになります。有名な一族には、竇氏(とうし)、梁氏(りょうし)、何氏(かし)などがいます。

その結果、皇太后とその家族が国を動かすようになり、皇帝は名前だけの存在になってしまうのです。

宦官が力を得るわけ

しかし、皇帝が大人になると、外戚の支配から抜け出したいと思うようになります。でも、朝廷の高官たちはすでに外戚の味方になっているので、頼れる人がいません。

そこで皇帝が頼るのが、いつもそばにいて世話をしてくれる宦官です。

宦官は宮中に住んでいて、皇帝にとっていちばん身近な存在です。外戚を倒すクーデター(たとえば竇武・陳蕃事件)を成功させると、皇帝は彼らに大きな権限を与えて感謝を示します。十常侍(じゅうちょうし)などが有名です。

こうして今度は、宦官が政治を動かすようになるのです。

本当の理由:皇帝の力が強すぎることと、制度の問題

この「外戚 ↔ 宦官」の交代専権は、単なる人間関係のいざこざではありません。その根本的な原因は次の二つにあります。

(1)皇帝の力が強すぎて、それを止める仕組みがないこと

東漢では皇帝の権限が絶対的で、それを抑える仕組み(たとえば宰相が独立して動けるような制度)が弱まっていました。光武帝の時代から、「三公という役職はあるが、本当の権限は皇帝の直属である尚書台にある」と言われるほど、内側のスタッフが政治を動かすようになっていました。そのため、正式な官僚組織はうまく機能しなくなりました。

(2)地位が血筋で決まるため、子どもがよく皇帝になったこと

皇帝の座は親から子へと受け継がれるため、年齢や能力に関係なく即位します。子どもが皇帝になると、必ず誰かが代わりに政治をすることになり、それが外戚や宦官のチャンスになります。そのため、摂政→外戚台頭→宦官による反撃という流れが何度も繰り返されたのです。

まとめると、外戚と宦官が交代で権力を握ったのは、「皇帝の力が強すぎる+地位が血筋で決まる」という制度そのものに問題があったからです。


最後の結果:東漢の終わり

この悪循環は、政治の腐敗や民衆の苦しみを招き、やがて大きな乱れにつながりました。たとえば、184年の黄巾の乱、189年の董卓の乱があり、その後は各地の有力者が争う群雄割拠の時代に入り、最終的に三国時代が始まりました。こうして、東漢は滅びました。