
「科挙で状元になる」ということが具体的にどれほどすごいことなのかというと、約1300年続いた歴史の中でも首席合格者は全部で650人くらいしかおらず、毎年3,000人ほどが入学する東京大学とは違って数年に一人しか出ない存在なので。
世界で一番古い官僚を選ぶテストとしての科挙
隋の時代(605年頃)に始まって清末の1905年に終わるまで千年以上も続いたこの役人採用試験は、家柄や血筋に関係なく勉強の成績だけで偉くなれる仕組みだったので、当時の世界ではとても進んだやり方でした。
- 隋唐期:詩や文章のうまさを大切にする最初のころ
- 宋代:規模が大きくなりルールも整った変わり目の時期
- 明清期:八股文という決まった形の作文が使われるようになって競争が一番激しくなった時代
首席になるための四つの壁
明代以降の仕組みを例にして受験生がトップにたどり着くまでの流れを見ていくと、それぞれの段階でほとんどの人が落ちていくことがわかります。
第一段階:童試をクリアして「秀才」の資格を取る
正式に試験を受ける権利を得るための最初のテストで、県・府・院という三つの試験を順番に受かって初めて生員として認められるのですが、参加者は地域ごとに数百人から数千人もいて通る人は2〜5パーセントくらいしかおらず、一生かかってもこの壁を越えられずに「童生」のままで人生を終える人もたくさんいました。
第二段階:郷試で「挙人」の称号を手に入れる
三年に一回、各省の都で行われるこの試験に受かれば下級の役人になれる資格がもらえるものの、一省あたり数千人が集まる中で定員は50〜100人程度しかなくて通过率は1〜2パーセントという狭き門であり、さらに三日間ずっと狭い部屋に閉じ込められて食事や寝るのも同じ場所で済ませなければならないというとても大変な環境でした。
第三段階:会試を通って「貢士」になる
郷試に受かった人だけが挑戦できる全国統一のテストが北京の貢院で行われ、全国から5,000〜8,000人の挑戦者が集まる中で採用されるのはおよそ300人だけなので、生き残れる確率は4〜6パーセントくらいになります。
最後の壁:殿試での順位決め
天皇自身が問題を出して見張る最高のテストで、会試に通った約三百人が一甲・二甲・三甲に分けられ、一甲の一位が唯一無二の状元、二位が榜眼、三位が探花となるので、全国から勝ち上がったすごい人たち三百人の中からただ一人だけが栄冠を手にすることになります。
数字で見るすごい倍率
| 指標 | 数値 |
|---|---|
| 明清時代、一年あたりの全受験者(童試から計算) | 数十万人 |
| 最後に受かる進士 | 約三百人 |
| 首席になる人 | 一人だけ |
| 試験の間隔(明清) | 三年に一回 |
| 清代(約二百六十年)の開催回数 | 百十二回 |
| その時代の状元の数 | 百十二人 |
| 全期間(約千三百年)の合計 | 六百五十人くらい |
たとえば、ある年の最初の試験に全国で五十万人が受けたとすると、そこからすべての壁を越えてトップになる確率は単純計算で0.0002パーセントとなり、これは五十万人に一人という信じられないくらいの低さです。
今の難しい試験との比べ
| 対象試験 | およその合格率 |
|---|---|
| 中国高考→清華・北大入学 | 0.05パーセント(省内トップ層) |
| 東大一般入試 | 10パーセントくらい |
| ハーバード大入学者選抜 | 3〜4パーセント |
| 科挙(最初から首席まで) | 0.0002パーセント未満 |
今の有名な学校とは桁が全然違い、同時代における勉強の競争で一番強かった人こそがこの称号を得たのです。
難しさを上げた理由
勉強する範囲が広すぎる
まず、四書五経を全部暗記するだけでなく詩賦・策論・八股文を作る技術や歴史・政治の理論まで求められ、十数年から二十年くらいの練習が普通だったので短期間の準備では全く足りませんでした。
八股文の厳しいルール
それから、題の意味の取り方から構成、対句の表現、文字数に至るまで細かい決まりがあり、中身を論じながら形も完璧に守らなければならなかったので、今の論文を書くのとは全く違うレベルの技術が必要でした。
体への負担が大きい
また、郷試・会試ともに三日間のテストを三回繰り返して合計九日間を密室で過ごし、暑さや寒さや病気に耐えながら答案を書き続けなければならず、試験中に亡くなる人さえいました。
運も関係する
最後に、最終的な順位は君主の判断で決まるので、純粋な学力だけでなく為政者の好みや政治の状況が結果を変えることも少なくありませんでした。
歴史に名前が残った首席合格者たち
- 王維(唐):詩・絵・音楽のすべてに長けた万能の天才
- 王安石(宋):熙寧の新政をリードした改革派の宰相
- 文天祥(宋):元軍に捕まっても信念を貫き、「人生自古誰無死」の名文を残した忠臣
- 翁同龢(清):光緒帝の先生を務めて戊戌の変法を支えた重要な人物
ただし、後世に覚えられている人物はごく一部だけで、称号を取ること自体がすでに普通の人を超えた達成だったのです。
読者からの質問への答え
Q. 歴史上の状元は何人くらい?
A. 隋から清までの千三百年間で、史料に残っている数は六百五十人くらいとされています。
Q. 女性の首席合格者はいた?
A. 基本的には男性限定でしたが、太平天国の時代に一度だけ女性向けの試験が行われた記録があります。
Q. 称号を取ったときの特典は?
A. 従六品以上の役職がすぐに与えられ、宮廷でのお祝いの宴会や故郷での凱旋パレードなど、最高の社会的待遇が約束されました。
Q. 受かったときの平均年齢は?
A. 明清期の進士では三十五〜三十七歳が中心で、二十代での首席当選はとても珍しいことでした。
まとめ
科挙の状元とは、数十万の挑戦者の中からただ一人だけが許される、人類史上最も過酷な知的選抜であり、通過率は0.0002パーセント以下なので、今のどんな難しい試験もこの数字の前では色あせてしまいます。
千三百年で六百五十人という彼らの名前が今日まで語り継がれている事実こそが、その途方もない難しさを何よりもはっきりと証明しているのです。





