
隋の煬帝が605年につくり始めてから清朝が終わる1905年まで千三百年ほどもつづいた役人になるためのテストが科挙であり、家柄や血のつながりではなくテストの点数だけで人材を選ぶという点がそれまでの貴族中心の仕組みと大きく違っていて、勉強すれば偉くなれるという道を初めてきちんと整えたことで、儒教が一部のお金持ちだけの学びから一般の人たちの生き方のルールへと変わるきっかけになったのだ。
儒教が広まった五つの理由
1. テストの内容が儒学だけだったこと
時代によって少しずつ変わりはあったけれど科挙で問われるのはいつも儒家の本の読み方や使い方で、唐朝の進士科では詩や政治についての意見が大切にされていたものの明経科では『五経』を暗記してその意味を理解することが絶対に必要だったし、宋朝の1071年に王安石が改革をおこなってからは詩をつくる能力よりも経義と呼ばれる本にもとづいた論述が重視されるようになり、元代以降は朱熹が書いた『四書章句集注』だけが正しい答えとされてそれに合わない考え方はすべてダメだとされたので、役人になりたい人は儒学を学ぶしかなく仏教や道家の思想などはテストに出ないから誰も勉強しなくなったのだ。
2. 本が全国どこでも同じになったこと
科挙のおかげで儒家の本は国が定めた教科書のような存在になり、宋代以降の受験生は『大学』『中庸』『論語』『孟子』『五経』といった書物を覚えてその内容を理解しなければならなかったのだが、これらの本は私塾や書院などの勉強する場所をつうじて田舎の村にまで届くようになり、宋代に印刷の技術が発達したこともあって四書五経は国中でいちばん多く読まれる本になったのである。
| 書名 | どんな内容か |
|---|---|
| 『大学』 | 自分の身を修めて国をおさめるまでの道筋 |
| 『中庸』 | まじめさとバランスのとれた心のあり方 |
| 『論語』 | 孔子のことばや行いの記録 |
| 『孟子』 | 人間はもともと善であるという考えと優しい政治の理論 |
| 『五経』 | 詩・書・礼・易・春秋という古い時代の文献 |
3. 八股文で考え方が型にはめられたこと
明代の1370年以降に定着した八股文という答案の書き方はきびしい決まりを求めていて、題目はかならず四書五経から出て朱熹の注釈からはずれてはいけないし起承転結を含む八段の構成を守らなければならなかったので、自分の考えを書くことはつぶされてしまったけれども、逆にこの決まりがあったおかげで全国の人が同じやり方で同じ解釈を学ぶことになり、忠孝仁義礼といった大切な価値観がみんなの共通の言葉のように共有されるようになったのだ。
このしくみは1901年になくなるまで五百年くらい機能して、儒教的な考え方の土台としてはたらきつづけたのである。
4. お金持ちも貧しい人も関係なく広がったこと
科挙のすごいところは農民や商人の子どもにもテストを受ける資格があったことで(賤民や俳優などは除く)、これで儒学を学ぶことが特別な人たちだけのものではなくなり、郷試・会試・殿試という三段階の審査をとおして地方の出身者も「儒学を学んで受かれば役人になれる」という夢を持てるようになったし、受からなかった人も故郷で塾の先生や地域の顔役として活動することで儒教的な道徳を身近なところに根付かせたうえ、合格した人の家族は「書香門第」として尊敬されたので儒学=成功への切符だというイメージが社会全体に広がっていき、宮廷だけの学問ではなくて村の冠婚葬祭や家の教え、地域の約束事レベルにまで浸透していったのだ。
5. 近くの国々にも伝わっていったこと
科挙と儒学のセットは中国だけでなくまわりの国々にも伝わり、朝鮮半島では高麗時代の958年に科挙が始まって李氏朝鮮の時代には朱子学を国の教えとして試験制度を真ん中に据え、ベトナムでも黎朝や阮朝の時代に1075年から科挙がおこなわれて四書五経がテストの中心になり、琉球では久米村の士族が儒学を学んで中国との外交に役立てたのだが、日本だけは科挙を採用しなかったものの江戸時代に昌平坂学問所などで武士が儒学を学んだように、制度があるかないかに関係なく儒教的な教養は東アジア全体の知的なベースとなったのである。
時代ごとの変化と儒学との関わり
| 時期 | 科挙の特徴 | 儒学との関係 |
|---|---|---|
| 隋(605〜) | 進士科がつくられる | 儒教がテストの主役になる |
| 唐(618〜907) | 進士科と明経科が両方ある | 詩賦が大事だけど五経も必修 |
| 宋(960〜1279) | 経義が重視され殿試が加わる | 王安石の改革で経義が核心に。朱熹の注が影響力を増す |
| 元(1271〜1368) | いったん止まってから再開 | 『四書章句集注』が公式テキストに |
| 明(1368〜1644) | 八股文が決まる | 朱子学だけが正解。ほかの考えは排除 |
| 清(1644〜1905) | 八股文がつづく→1901年廃止→1905年制度終了 | 儒学を支える柱がなくなって近代化へ |
ここでとくに大切なのは宋代で、王安石の制度改革と朱熹の注釈が合わさったことによって、科挙はただの人材選びから「朱子学を国の考え方として何度も作り直す装置」へと姿を変えたのである。
日本が科挙を取り入れなかったわけ
日本の読者が気になるポイントだと思うが、遣唐使をつうじて制度のことは知っていたのに導入しなかった理由は、律令制の下ですでに役人の選び方が動いていてテストより氏族の家格を優先したことや、貴族社会のつくり上ふつうの人がテストで官位を取ることが受け入れられなかったことや、平安時代以降は世襲やコネで役職が決まることが当たり前になって科挙の前提が成り立たなくなったことなどが挙げられる。
ただし江戸時代に朱子学が官学になると幕府が昌平坂学問所をつくって武士に儒学を教えたので、これは科挙を使わない日本独自の儒教の広め方だと言えるだろう。
おわりに:科挙は儒教を文明の土台に変えた
科挙が儒教の拡大に果たした役割をまとめると三点に絞ることができて、一つ目は役人になるために儒学が必要だったのでシステムが勉強する気持ちを保証したこと、二つ目は四書五経と朱熹の注と八股文の組み合わせで全国どこでも同じテキスト・同じ解釈・同じ形式が共有されたこと、三つ目は受かっても落ちても儒学を学んだ人たちが各地に散らばって村レベルまで価値観を広げたことである。
1905年に制度自体は終わったけれども、孝・忠・礼・勉強を大事にする心といった儒教的な価値観は中国・朝鮮・ベトナムの社会のつくりに深く刻まれていて、今の東アジアの教育に対する熱意や家族のあり方にもそのあとが残っている。
科挙というのは、儒教を「昔の賢い人の考え」から「文明を動かすOS」へと変えた、歴史上ほかに例がないほど大きな教育システムだったのだ。







