宋太祖はいかにして「同平章事」を通じて宰相の権力を弱めたのか?

宋太祖はいかにして「同平章事」を通じて宰相の権力を弱めたのか?

宋朝ができたばかりのころ、趙匡胤(宋太祖)は唐の終わりや五代十国時代に起きた混乱を教訓にして、皇帝自身の力を強くすると同時に、宰相が持っていた権限を細かく分けて弱めるための改革を進めました。その中で特に重要な役割を果たしたのが、「同平章事」という役職をうまく使い直す方法でした。

同平章事って何?——唐から宋へと受け継がれ、そして変わった制度

「同平章事」とは、「同中書門下平章事」を短くした言い方で、唐の後半から実質的に宰相として働いていた役職です。宋の初めにも、この役職は最高の行政責任者という名前だけ残されていました。

しかし宋太祖は、この昔ながらの役職を使い続けながら、その本当の力は少しずつ取り上げていきました。

権限を三つに分ける:「二府三司制」のはじまり

宋太祖が宰相の力を抑えるために作った仕組みの中心は、「二府三司制」と呼ばれる新しい体制です。これは、それまで宰相が全部まとめて持っていた行政・軍事・財政という三つの大きな権限を、それぞれ別の組織に任せるやり方でした。

1. 行政の仕事:中書門下(政事堂)と参知政事

同平章事は名前だけ宰相でしたが、実際の決定権はほとんどありませんでした。一方で、乾徳2年(964年)には趙普が同平章事になったのと同時に、薛居正らが「参知政事」という副宰相のような役に任命されました。最初はただの補佐役でしたが、後に政事堂での話し合いに参加したり、印鑑を管理したりする権限も与えられて、同平章事を監視する存在になっていきました。

2. 軍の指揮:枢密院

軍の命令や兵の配置は、枢密使が専門で担当するようになり、宰相は軍のことに一切口出しできなくなりました。文官と武官をはっきり分けたことで、武将が勝手に強くなりすぎるのも防がれました。

3. お金の管理:三司

国の財政は、「三司使」という役人が塩鉄・度支・戸部の三つの部署をまとめて管理するようになりました。三司使は「計相」とも呼ばれて宰相と同じくらい重要な役でしたが、直接皇帝に報告するため、宰相の言うことを聞かなくてもよくなりました。

こうして同平章事は「名前だけのトップ」になり、実際の仕事は他の役人たちが行うようになったのです。

964年:制度が大きく変わった決め手の年

乾徳2年(964年)は、宋太祖が宰相の力を抑える上でとても大事な年でした。この年、北周から来た范質ら三人の宰相が辞め、代わりに宋太祖の信頼する趙普が同平章事になりました。同時に、薛居正と呂余慶が参知政事に任命され、副宰相の制度がずっと続くことになりました。

この人事によって、皇帝の側近が宰相の仕事をし、その権限は副の役人がチェックするという仕組みがしっかりできあがりました。

また同じ年に、宰相が皇帝に会うときに座ってお茶を飲むことができた「賜坐・賜茶」という習慣もやめさせられ、これにより儀式の面でも宰相の立場がわざと低くされたのです。

結論

宋太祖は「同平章事」という昔からの役職をそのまま残しながら、中に参知政事を入れて監視させ、外には枢密院と三司という新しい組織を作ることで、宰相の権力を完全に自分の手の中に収めました。

この仕組みは、北宋の時代を通じて「皇帝が一番強い」「文官中心の政治」「中央がしっかり統治する」といった体制の土台となり、中国の歴史の中でも非常にうまくできた権力分散の例として高く評価されています。